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戦時中、撃沈された学童疎開船「対馬丸」…記憶を次代に 沖縄県/那覇市 |
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母親と姉の遺影を指す照屋さん。「沈没の直後は、しょうゆだるにしがみついていた。でも、その後の漂流中の記憶は飛んでしまっている」と話す。ただ、「以前は波の音が聞こえると、脚が引っ張られるような感覚に襲われた。『対馬丸のことからは離れていたい』という時期が長かった」と明かす。語り部の活動を始めたのは13年ほど前。「話をさせていただくことが、自分の気付きにもつながっていると感じます」 |
生存者と遺族、記念館で「語り部」続ける
第2次世界大戦さなかの1944(昭和19)年8月21日、那覇港を出港した大型貨物船「対馬丸」は翌22日、米潜水艦に撃沈された。沖縄の「島外疎開」の子どもを中心に約1500人が命を奪われた「対馬丸事件」。現在、那覇市には、その史実を伝える「対馬丸記念館」が立つ。生存者や遺族は今も「語り部」として惨劇の記憶をつなぎ、海に眠る子どもたちの“夢”を次代に託す。
九州に向かっていた対馬丸が複数の魚雷を浴び夜の海に没してから79年—。280人ともいわれる「生存者」は年を重ね、多くは鬼籍に入っている。今も語り部として活動する生存者2人のうち、照屋恒(ひさし)さん(83)は沈没から約15時間後、漁船に救助された。「僕は一番早く助けられた方。丸5日間、イカダで漂流した人もいました」。当時4歳7カ月の照屋さんを抱いて船倉から脱出した母親は、「(照屋さんの)お姉ちゃんを捜してくる」と泳いで去り、戻ることはなかった。「結局、姉も見つかりませんでした」
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展示されている二つのランドセルは、もともとは外間さんの姉2人の持ち物だ。対馬丸とは別の船で運ばれ、疎開予定先の宮崎県で偶然、親戚によって見つけられた。「戻ってきたのは奇跡。私は(犠牲になった)“みんなのランドセル”と思っています」と外間さん。沈没時の対馬丸の乗船者は船員、兵員を含め1788人で、犠牲者は現時点で1484人とされる。だが、「当時の混乱のため、正確とはいえない数字」。名前が判明した生存者は280人だが、「生存者数もはっきりしていません」と指摘する |
「私も行きたい…」。2人の姉を泣いて見送った外間(ほかま)邦子さん(84)も語り部の一人だ。「少し年の離れた私は、姉2人の後をよく追い駆けていました」。鹿児島県トカラ列島悪石島沖の海底で船体が発見されたのは97(平成9)年。「水深約870メートルからの引き揚げは困難」との説明を受けた遺族は04(同16)年、那覇市の海沿いに対馬丸記念館を開館させている。外間さんは「せめて“魂”は古里に、との思いでした」。
記念館の屋上までの高さは、海面から対馬丸の甲板までと同じ約10メートル。入り口のある2階から1階への階段は、船倉へ下りるイメージだ。乗船、沈没、漂流・救助、かん口令…。これらを物語る手紙やスケッチ、米軍の記録などの展示に加え、壁面には犠牲者の遺影が並ぶ。ただ、その数は全体の4分の1ほど。44年10月に那覇市街地の約9割を焼き尽くした「十・十空襲」と、45年3月末からの「沖縄戦」により、おびただしい人命に加え多くの遺品も失われた。外間さんはかみ締める。「当たり前の日常、物、心、命…、戦争は全てを奪う“最大の悪”です」
照屋さんは言い添える。「平和はあっという間に壊れてしまう。それを肌で感じていただければ…」。だが、コロナ禍で4度の臨時休館。語り部の講話も3年以上、ほぼ休止を余儀なくされた。来館者数は今、次第に元に戻りつつあるが、2人はこう口をそろえる。「(聞く人が)お一人でもお話しします」
44年7月の「サイパン陥落」に伴い、日本政府・軍は、沖縄を「次の戦場」と見定め、高齢者や子ども、女性の「島外避難」を指示している。しかし、周辺の海は既に戦場。急きょ“学童疎開船”に仕立てられた老朽貨物船の対馬丸は船足が遅く、「真珠湾の復讐(ふくしゅう)者」との異名を持つ米潜水艦「ボーフィン号」の格好の標的となった。照屋さん、外間さんは言葉に力を込める。「亡くなった子どもたちは『平和の使者』。その“夢”を今を生きる人に、特に次代を担う子どもたちに託し続けたい」 |
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◆ 対馬丸記念館 ◆
沖縄都市モノレール「ゆいレール」県庁前駅から徒歩15分。入館料は一般500円。毎週木曜日休館。語り部の講話は無料(入館料のみ必要)。要予約。講話依頼書は同館ホームページからダウンロードできる。同館の運営をサポートする「対馬丸協力会」の会員も募集中。年会費2000円(一口)。会員は入館無料になるほか、情報誌「対馬丸通信」などが送付される。
問い合わせは同館 Tel.098・941・3515 https://www.tsushimamaru.or.jp |
対馬丸記念館がある「旭ヶ丘公園」とその周辺には、沖縄の平和や歴史、文化、芸能に関わりのある碑が数多く立つ。
対馬丸事件の慰霊碑「小桜の塔」は、愛知県の子ども会の「一円募金」をもとに1954(昭和29)年に設置。大戦中、沖縄県民が乗船し撃沈された「戦時遭難船舶」は対馬丸のほかに25隻あり、「海鳴りの像」にはその犠牲者が祭られている。「恒久平和のモニュメント なぐやけ」や「戦没新聞人の碑」なども自由に見学できる。 |
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