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潜伏キリシタン 信仰と弾圧の歴史 長崎県/久賀島(五島列島) |
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キリシタン弾圧による殉教者をしのんで信者が建築した久賀島の旧五輪(ごりん)教会堂。五島に現存する最古の教会建築物で、1881年に建てられた。弾圧を恐れ、一見教会とは見えにくい外観に信者の工夫がうかがえる |
2018年7月、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録された。これを機にこのほど、世界遺産12カ所の中で4カ所を占める長崎県五島列島のうち久賀(ひさか)島(五島市)を訪ね、その集落や教会などを目にした。遺産群巡りの旅は、キリスト教禁教期の宣教師不在の中でひそかに信仰を続けた潜伏キリシタンが、むごい弾圧を経て「潜伏」を終えるまでを追体験する旅でもある。久賀島で潜伏キリシタンの歴史を振り返った。
「牢屋の窄」など含め世界遺産認定
今回、世界遺産に登録された構成資産の一つ「久賀島の集落」。五島列島最大の島、福江島の隣に位置する馬蹄(てい)形の同島は、1868(明治元)年に大規模な潜伏キリシタン弾圧事件「牢屋の窄(さこ)殉教事件」が起きたことで知られる。同事件について、長崎の巡礼地に関する情報発信を行っているNPO法人長崎巡礼センター事務局長の入口仁志さん(72)は「明治政府のキリシタン弾圧が西洋で問題となったのは、この『牢屋の窄』がきっかけでした」と説明する。
「牢屋の窄」の跡地に立つ石碑(右)と「信仰之碑」(後方)を前に話す入口さん |
五島藩の政策により長崎・外海(そとめ)地区(大村藩領)などから久賀島への入植が始まったのが禁教下の18世紀後半のこと。(入植した)潜伏キリシタンは、その多くが仏教徒であった、以前からの住民が住む集落の周辺、あるいは全く人が住んでいない未開地に移住し、集落を形成。以前からの住民と漁業や農業で互助関係を築きながら、ひそかに自らの信仰を継続していったのである。しかし、幕末から明治にかけて宣教師の再来日が始まるとともにキリシタンへの弾圧は厳しさを増す。そして、久賀島では潜伏キリシタンが神棚や仏壇を捨てた上、自らキリシタンであることを役人に申し出たことから「牢屋の窄殉教事件」が起こった。
田ノ浦港から車で15分で同事件の現場となった「牢屋の窄殉教記念聖堂」に着く。この事件のあらましが書いてある石碑を前に入口さんは「ここでは明治の弾圧で最も多い42人もの潜伏キリシタンが亡くなったのです」と話す。石碑を読むと、わずか建屋6坪(12畳)の牢に収容された子どもを含む老若男女200余人が、立すいの余地もない人間の“密集地獄”に閉じ込められ、激しい火責め、水責め、算木(さんぎ)責めなどを受けたという。「なぜ、150年前にこの島でこんな弾圧が行われたのか。それでも彼らはなぜ、ころばなかった(棄教しなかった)のか」と、入口さんはこの場所に来るたび自問せざるを得ない。
1873(明治6)年、明治政府は牢屋の窄殉教事件や、「浦上四番崩れ」と呼ばれる大規模な弾圧事件に対する西洋諸国からの強い抗議でキリスト教禁教を定めた高札を撤去する。そして、1890(明治23)年に施行された明治憲法で、信教の自由が認められた。入口さんは「政府に信教の自由を憲法に書き込ませた最大の理由の一つが『牢屋の窄』でした。それは現憲法の基本的人権にまでつながってくる。世界遺産登録の本当の価値が見えてくると思います」と話す。
キリスト教解禁後、潜伏キリシタンは宣教師の指導下に入ってカトリックへ復帰する者と、神道や仏教へ改宗する者、引き続き禁教期からの信仰を続ける者(カクレキリシタン)に分かれた。このとき、久賀島集落の潜伏キリシタンはカトリックへと復帰し、各集落に教会堂を建てていったのである。 |
福江島のリゾート施設
「五島コンカナ王国」の料理 |
五島列島の海の恵み
五島列島を囲む海は、タイやヒラマサ、アオリイカ、キビナゴなど、豊富な魚種に恵まれた好漁場だ。
久賀島を訪ねる前後には、ホテルやレストランのある福江島などで、「海の幸」をはじめ地元の食材をふんだんに使った料理も楽しみたい。 |
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構成資産内の教会堂見学には事前連絡が必要。
問い合わせは「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」インフォメーションセンター Tel.095・823・7650 |
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