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小諸時代の藤村について語る
藤村記念館館長の川原田雅夫さん |
長野県小諸市は文豪・島崎藤村が6年間暮らしたまち。70余年を生きた藤村にとって長い年月ではないけれど、自ら「小諸生活は一生忘れることができない」と記しているほど思い出深い場所だったようだ。小諸は藤村の人生にどんな影響を与えた土地だったのか。そんな思いを抱きながら、ゆかりの場所を訪ね歩いた。
小諸義塾の教壇に
藤村が、浅間山麓の小諸に居を移したのは1899(明治32)年。旧師・木村熊二の誘いで、熊二が主宰する私塾(小諸義塾)の教師に就くためだった。
「当時28歳の藤村は詩人としての名声を既に得ていたものの、詩による表現の限界に悩んでいた時期でした。『もっと自分を新鮮に、簡素にする方法はないか』と小諸へ来たころの心境を『千曲川のスケッチ』につづっています。その渇望は詩から小説へ向かう転機となり、小諸では教師をする傍ら、自然や人を詳細に観察して、その本質を表現する稽古に徹していきます」。小諸市立藤村記念館館長の川原田雅夫さん(67)は話す。
その姿勢は塾での国語教育にも表れていたことが、同館の展示物(藤村が生徒の書いた作文に赤で記した丁寧な添削文)からうかがえる。藤村が教師を務めた小諸義塾は個性的で自由を重視する教育を目指したが、日露戦争を契機に国家の教育制度に阻まれて1906(明治39)年に閉校。当時の敷地内(小諸駅裏手)には小諸義塾跡の碑が立っている。 |
小諸義塾塾長・木村熊二の書斎「水明楼」。藤村もたびたび訪れた。千曲川の岸近く、坂の中腹にある |
千曲川望む「水明楼」へ
小諸義塾跡の碑の前の道を、千曲川へ下っていくと、途中の崖っぷちに、かやぶきの小さな日本家屋が見えてくる。熊二の書斎「水明楼」で、藤村もよく訪ねていた。1階には石垣の壁が残る炊事場らしき空間やいろり部屋。急な階段を上がると藤村愛飲の濁り酒などを酌み交わしつつ書生らしい雑談を交わしたであろう畳の間が昔のままに残り、浮世離れした庵(いおり)のような風情を感じさせる(見学自由)。
入浴楽しむ
水明楼が立つ崖のすぐ下には、温泉旅館の中棚荘がある。1898(明治31)年の創業当時は中棚鉱泉と呼ばれ、鉱泉の発掘には熊二も関わった。藤村は浴槽から外の景色を眺めて入浴を楽しんだ様子を書に記している。
現在は藤村ゆかりの宿として、5代目荘主とその家族が中心となり、老舗ののれんを守り続けている。 |
落ち着いた和の空間で食事が楽しめる「はりこし亭」 |
ゆかりの食
隣接する「はりこし亭」は、宿直営の食堂。藤村の作品に登場する南佐久地方の郷土食はりこしまんじゅうや、手打ちそば、会席料理などが味わえる。
上京を決意
藤村が教師を辞めて上京を決意するのは34歳のとき。小諸で着想を得た「破戒」の自費出版を目指し、執筆活動に専念する覚悟で旅立ったという。
藤村記念館に展示された藤村の顔写真が興味深い。小諸時代の1年ごとに撮った7枚が年代順に並ぶ。「坊ちゃん風から年々険しい表情に変化していく様子が分かります。自分を律して厳しく生きたのでしょう。教師の立場であった一方、自分もまた自然や人など小諸のあらゆるものから学んだと語っています」(川原田さん)。
藤村記念館は、懐古園と呼ばれる小諸城址公園の中にある。浅間山を望み、春は桜、秋は紅葉が美しい。火山灰でできた起伏を生かした園内は、深く谷になった空堀が幾つとなくあり、歩き進むと「小諸なる古城のほとり」に始まる藤村碑に出合う。そばの展望台からは、蛇行する千曲川が見下ろせる。その川を眺めて6年を過ごした藤村は、この土地で得た体験や着想を作品にして世に送り出していった。小諸は小説家としての藤村を育む、母なる大地のような存在だったのだろう。 |
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◆ 小諸観光の問い合わせ ◆
小諸市商工観光課 Tel.0267・22・1700
中棚荘 Tel.0267・22・1511 |
◆ おすすめスポット ◆ ・小諸城址「懐古園」…敷地内には藤村記念館のほか、美術館や動物園も。
・光岳寺…商家が軒を連ねる古い町並みが残る旧北国街道沿いにある。藤村の作品にも登場する。
・大和屋紙店…藤村が原稿用紙に使う紙を買いに通った店。 |
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