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方角や四季、時刻を問わず、いつどこから見ても趣深い天橋立。籠神社裏手の山・傘松公園からの眺め |
“海の京都”と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。古来、神話の創世物語や伝説が残る京都府北部には、海に面した地域ならではの歴史や自然があり、独自の文化を育んできた。京の都を支えてきた丹後国が成立してから、昨年1300年を迎えた。日本三景の一つ・天橋立(京都府宮津市)は、古くから歌人や俳人をはじめ多くの人を魅了し続けてきた。日本の原風景ともいえる悠久の地を訪ねた。
海と空が溶け合うような青さの中に一筋の常緑の橋が架かる—。そんな天橋立の由来は、「イザナギノミコトが天に通うために“天梯立”という梯(はしご)を立てたが、ミコトが寝ている間に倒れ伏してしまった。東の海を与謝海(よさのうみ)=宮津湾、西の海を阿蘇海(あそのうみ)という」(丹後国風土記)とある。
そうした逸話から「久志濱(不思議の浜)」とも呼ばれた天橋立を渡ってみる。全長3.6キロ、徒歩なら約70分、海上を行く観光船なら12分ほどだが、海風を切りながら約20分で対岸へ着くレンタサイクルもおすすめだ。
北近畿タンゴ鉄道天橋立駅に近い智恩寺側から最初に渡る赤い橋が「廻旋橋」。船を通過させるために90度旋回する橋で、与謝野晶子が詠んだ《人おして廻旋橋の開く時 黒くも動く天橋立》の歌碑がこの先にある。1923(大正12)年に架けられ、1960(昭和35)年に電動になるまでは、この歌のように手動だったという。
与謝野寛・晶子夫妻の歌碑 |
2つ目の橋「大天橋」の先に「与謝野寛・晶子ご夫妻歌碑」が立つ。寛(鉄幹)の父で歌人の礼厳(れいごん)が宮津の隣町・与謝野町の出身で出家後、生まれた地にちなんで「与謝野」を名乗るようになったという。丹後にゆかりの深い夫妻はよくこの地を訪れ、歌碑とは別の寛作《楽しみは大内峠に極まりぬ まろき入江と一筋の松》も残る。
ほどなく、与謝蕪村の句碑《はし立てや松は月日のこぼれ種》に出合う。40歳前後の3年間、母親の故郷・与謝村(現与謝野町)で過ごしたという蕪村も、天橋立の不思議さを感じていたに違いない。
約8000本の松並木が続く |
脇道の奥には、海に囲まれているのに真水が湧く神秘的な「磯清水」がある。それを《橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし》と詠んだのは和泉式部。丹後守となった夫・藤原保昌に付き従ってこの地に暮らした。
丹後を領国とし、この明媚(めいび)な風景を詠んだ人物として忘れてはならないのが戦国武将であり歌人であった細川藤孝(幽斎)だろう。忠興・ガラシャ夫妻の父君でもある。《雲はらふ与謝の浦風さえくれて 月ぞ夜わたる天橋立》《はるばると与謝の湊の霧はれて 月に吹きこす伊根の浦風》。海辺の月の美しさを想像しているうちに渡り終えた。
「元伊勢、お伊勢の故郷じゃ」と民謡にも歌われる元伊勢 籠神社 |
日本最古の系図
やがて「元伊勢 籠(この)神社」の鳥居が見えてきた。もともとは天照大神と豊受大神が祭神だったが、伊勢神宮に移ったため、元伊勢の名を冠しているという。その後、彦火明命(ひこほあかりのみこと)を祭神とし、海部直(あまべのあたえ)と呼ばれる宮司家が83代にわたって守ってきた。その「海部氏系図」は現存する日本最古の系図とされ、国宝だ。
本殿高欄上の「五色の座玉(すえたま)」は伊勢神宮正殿と同神社本殿のみに付けることを許されているもので、神社建築上貴重なものであり、格式の高さも示している。
「続日本紀」によると、丹後国は713(和銅6)年、旧丹波国から分かれて建国されたという。神話と伝承が秘められた天橋立で日本の原風景にふれてみてはいかが—。 |
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【観光の問い合わせ】
海の京都観光推進協議会 Tel.0772・22・3770 |
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