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三池の石炭を口之津まで運び大型貨物船に移し替えた。写真は長崎港で大量の作業員がバケツリレーにより石炭を積み替える様子。口之津でも同じ光景が見られた(口之津歴史民俗資料館蔵) |
長崎・口之津港(南島原市)は島原半島南端に位置する天然の良港。明治時代の一時期、三井三池炭鉱の海外積み中継港として長崎港と並び繁栄を極めた。だが港から出航する船は「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭だけでなく、少女たちの涙も海の果てへと運んだ。“からゆきさん”と呼ばれた彼女たちの悲劇は今も語り継がれている。
石炭輸出で明治に繁栄
明治10〜20年代、三菱が長崎港を根城に高島や端島(軍艦島)で炭鉱開発に手を付けると、三井も有明海の奥に面する大牟田(福岡県)の三池炭鉱を開削して対抗。だが大牟田の海岸は遠浅で大型船の停泊は不可能であり、やむなく有明海の出口にある口之津を中継港とした。
それにより辺地の港だった口之津は長崎を上回る盛況を見せる。港には石炭積み出しのため世界中から大型貨物船がへさきを並べ、一大貿易港として税関も建てられた。しかし明治の終わり、大牟田に近代貿易港が整備されるや急速に斜陽化し寂れていった。現在税関は口之津歴史民俗資料館・海の資料館(南島原市口之津町)となり、往時の光と影を館長の原田建夫さん(68)が語り継ぐ。 |
展示されたからゆきさんらの写真(口之津歴史民俗資料館蔵)。一部を除き資料が長く闇に葬られたため、どのくらいの女性が被害にあったのか全体像はいまだに把握できないという |
「からゆきさんも輸出」
口之津の繁栄の陰で港を出た石炭船の船底には密航者により“ある荷物”が詰め込まれることもあった。貧しさゆえ、だまされ連れてこられた少女たちだ。原田さんは説明する。「口之津はからゆきさんの輸出港でもあった」と。行き先は世界津々浦々の娼館(しょうかん)。田中絹代主演で映画化した「サンダカン八番娼館 望郷」はマレーシアにある。
船底で運ばれる途中死ぬ者も多く、無事目的地に着いても身に覚えのない膨大な借金を背負わされ、死ぬまで苦界に身を置いた者も。さらに悲しいこととして原田さんは「運よく日本へ帰国できてもほぼ間違いなく家の者から恥とされ、多くが顔写真1枚も残されず歴史の闇に葬られた」と彼女らの無念を代弁する。
口之津の歴史の積み重ねを感情豊かに解説してくれる原田建夫さん |
原田さんは小学校の元校長。町の古老が集まる月1回の史談会では事務局長を務め、地元史やからゆきさんらの消息を研究する。「からゆきさんの子孫が消息を尋ねによく訪れる。最近は初老の男性が資料に親族の名前を見つけ大声で泣き出した。かける言葉もなかった」という。
入館料200円。月曜休館。島鉄バス口之津バス停下車徒歩15分(バス停から巡回バスも)。訪問時に申し込めば人数に関係なく原田さんが案内することも。 TEL.050・3381・5089 |
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口之津の歴史
口之津は歴史上、3度の盛衰を重ねてきた。1度目は戦国時代、長崎より早く宣教師が来航し南蛮貿易港、キリシタン布教の拠点として繁栄したが、島原の乱で住民全員が原城に立てこもり全滅。2度目が明治期の石炭輸出港時代だが、この衰退にあたり三井は集めた労働者を海外航路船員に転身させた。これにより戦後、世帯数の多くが高給取りの外航船員を輩出する町となり、彼らの仕送りが町に3度目の繁栄をもたらした。しかし日本の海運業の衰退に伴い、町から活気は失われた。
関連する南島原市の史跡は次の通り。
◎原城跡=島原の乱の終えんの地
◎日野江城跡=戦国時代、南島原を領したキリシタン大名・有馬氏の居城跡
◎吉利支丹墓碑=かまぼこ型の墓碑には日本最古となるローマ字による碑文が刻まれている |
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