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“フクシマ”支えて! 古里思い「原発講談」 講談師/神田香織さん |
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神田香織さんは音響や照明を駆使した「立体講談」でも知られる。よく「社会派講談師」と呼ばれるが、「講談師は庶民の側のジャーナリストでもある。『社会派』は最高の褒め言葉と思っています」 |
語って9年…「悔しい」
「悔しいです」。講談師の神田香織さん(57)は新作講談「チェルノブイリの祈り」を自ら作り、未来に警鐘を鳴らしてきた。「それなのに…」。古里の福島県いわき市で子育てと講談の仕事を続けていた9年前、同県内の原発を意識し語り始めただけに、痛恨の思いは一層募る。「講談は庶民の怒りを代弁する話芸。“フクシマの怒り”を語るのは私の使命」。古里支援のNPO法人設立に奔走するなど、「社会派講談師」の活動は“単なる芸人”の枠を超える。
「芸人としては、おしまいかもしれない」。39歳の時、幼い娘2人を連れて東京から実家に戻った。いわきから東京の寄席などに電車や高速バスで通った8年半。離婚で傷つき、不安ですくんだ心に染みたのは、家族や古里の人たちの温かさだった。特設の寄席を何度も企画してくれた友人や知人。いわきを舞台にした「フラガール物語」などの創作も、地元の協力のたまものだ。実家は福島県双葉郡の原発10基から南へ約60キロ。農業を営む父親に「もし事故が起きたら…」と尋ねたことがある。父親はいわき弁で「その時の風向き次第だっぺな」。香織さんは目を伏せる。「父から『(講談で)お前が言っていた通りになったな』と言われました」
「文化の力で復興支援」
高校卒業後、上京し有名な劇団の入団試験を受けた。しかし、「いわき弁の“なまり”のため、門前払い同然でした」。高校の同級生だった秋吉久美子の映画デビューに、「違う土地の生まれだった彼女には、なまりがない。ねたみさえ感じた」と明かす。24歳で講談を始めたのは「発声の基礎を学ぶため」。しかし、型にとらわれない二代目神田山陽の話芸に魅せられ、いつしか自身も講談師として独自の芸風とテーマを追い求めていた。サイパンや沖縄の戦跡を見て「戦争を語りたい。でも重くて暗過ぎると…、迷いましたね」。
そんな時、広島平和記念資料館で、子どもの頃読んだ漫画「はだしのゲン」が目に留まった。被爆した主人公の少年らが明るくたくましく生きる姿…。「これぞ講談にふさわしい」。作者の中沢啓治の快諾を得て25年前に語り始めた。以来、社会問題を扱った新作の数々を手掛け“弱者の記憶”を語り継ぐ。江戸時代の津波を題材にした「稲むらの火」も自作の一つ。早くから巨大津波時の原発事故を心配していた香織さんは「フラガールも含め、私の代表作が『3・11』で“出会って”しまった」。
旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故(86年)に関するインタビュー集「チェルノブイリの祈り」を手にしたのは、01年の参院選福島県選挙区に立候補し、次点となった直後だった。若い消防士の夫と妻の間を引き裂き、生後間もない子どもの命を奪った放射能。落選の結果に落ち込んでいたが、「親戚や友人が同じ目に遭ったらと考えると、じっとしてはいられなかった」と講談の台本を練り上げた。
「根底に流れるのは人間愛。だからこそ事故の残酷さが聴く人の胸を打つ」。身近な問題として考えてもらおうと、最後を架空の事故で結んできた。例えば「静岡県の太平洋に面した原子力発電所で…」。しかし福島の事故後は「最後が“予言”でなく過去形になった」。「3・11」後しばらくは「ひどい無力感に襲われた」と言う。
それでも救援物資を車に積み、都内の自宅と同県を何度も行き来した。「(政府や東電の)情報伝達は全くなっていなかった」。憤りに語尾が震える。情報と知識不足が住民の対立を生む現実も目の当たりにした。「今、古里を離れた私たちが、古里に寄り添っていかないと…」
仲間たちとNPO
10月、首都圏在住の同県出身者らと共に「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」を立ち上げた。正確な情報と知識を伝える一方、理事長に就いた香織さんの講談など“文化の力”で復興支援を訴える考えだ。NPO法人の認証手続きを進めながら、11月には都内で初の主催イベントも開催した。被害の終わりが見えないだけに、「息の長い取り組みになる」と話す。放射能汚染の広がりを指摘し、「それでも被害を福島に押し込めようとする空気を感じる。“フクシマ差別”は許さない」とも。原発再稼働、輸出を急ぐ動きには「まさか『それでようござんす』とは言えません」。自らの性格を「普段は陽気でのんき」と評するが、原発の問題では言葉が激しさを増す。
ただ、努めて笑顔を作り、こう続けた。「福島の事故後、『チェルノブイリ』を聴く空気が一変した。社会全体もきっと変わる」。張り扇を「パン」と鳴らし、講談の“修羅場口調”で声を張り上げる。
「この悲劇、絶対これ以上繰り返させぬ」 |
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