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「金持ちではないけれど、人持ち」と吉武さん。平和や平等への思いを共有する人たちとの絆を“志縁”と呼ぶ。「志縁の人間関係はすごく長く続きます」 |
「私は病気のデパートのオーナー」
膠原(こうげん)病、大腸がん、白血病…。平和や男女平等を掲げ著述活動を続ける吉武輝子さん(79)はほぼ30年間、「病気のデパートのオーナー」を自任する。「病気はするけれど病人にはならない」。近著のエッセー「万病(まんびょう)息災 老いても病んでも『元気』でいるコツ」は、病みながら老いていく時代の“治り上手になるための処方箋”だ。組織などの制約から解放される高齢期は「人生の旬の時代」。次世代の役に立っているという実感が「旬の時代をもっと旬にする」と話す。
性暴力の記憶
吉武さんは集団性暴力の被害者だ。終戦翌年の14歳の春…、進駐軍兵士5人に襲われ、「人を愛する資格も結婚する資格も失った」と思い詰めた。2度にわたる自殺未遂…。今、吉武さんは彼らの狂気に思いを巡らせる。「戦争で人権を踏みにじられ、その恨みが弱者への攻撃となって表れた」。反戦・平和、男女平等、護憲、反原発が、一貫してぶれない活動の軸だ。「生きている以上、価値ある生き方をしたい」。40代以降、命を脅かす病気を次々発症しているが、「その思いが強いから、心が折れないのかもしれない」とほほ笑む。
慶応大卒業後、東映で日本初の女性宣伝プロデューサーとなり、1968年頃から著述活動に入った。
反戦の姿勢を貫いた“ブルースの女王”淡谷のり子ら女性の評伝、生き方や人間関係のエッセー、女性や社会的弱者に共感のまなざしを向けた評論や近現代史の記録を意欲的に執筆する。77年には革新系無所属として参院選全国区に立候補。「全身リウマチ」の体を押して、全国各地を駆け巡った。
体が“砂漠化”
落選後、疲れもたたったのか膠原病の類縁疾患「シェーグレン症候群」に。涙や唾液などの体液が減り“体の砂漠化”が進む難病。10代の時、事故がもとで右目を失明していた吉武さんは「(ドライマウスで)歯が全て崩れ、(ドライアイで)左目も危うく失明するところだった」と振り返る。
肺の粘膜の乾燥は特にひどく、自然気胸になった右肺の3分の2以上を切除。左肺は肺気腫を患い、部分切除手術を受けた。カリニ肺炎が悪化した4年ほど前からは酸素ボンベが手放せない。ボンベには友人にデザインを頼んだカラフルな布をかぶせている。「おしゃれは生命力をアップさせる」。携帯用ボンベを買い物用のキャリーバッグのように手にし講演の演壇に立つ。大学の演劇部で腹式呼吸を身につけたこともあり、「今も健康な人以上の声量がある」。
05年には大腸がんが見つかりまた手術。「こうも大病が続くと、さすがにうつ症状が出ることがある」と苦笑する。自宅で1人になると「時にはわんわん泣く。泣いて気持ちを切り替える」。昨年1月には慢性白血病(骨髄炎)を発症し一時、危篤状態に陥った。現在は小康状態を保つが、「(慢性から)急性に変わると手の施しようがないと言われている」。
“遺言”の意識を込め昨年、女性の目線から昭和史を見つめた「〈戦争の世紀〉を超えて わたくしが生きた昭和の時代」(春秋社)を書き上げた。吉武さんは快活に笑う。「そうしたら欲が出て、次も書きたくなった」。ユーモアを交え病気にまつわる出来事をつづった「万病息災 老いても病んでも『元気』でいるコツ」(講談社)は、「病気になっても人生の主役を降りない」という明快な決意の実践集でもある。
「病気は人の役に立つ」。“逆転の発想”を示し、こう続ける。「自分の体験に乗っかった励ましは、人に生きる力を与える」。酸素ボンベなど、病気のマイナス面を補う補助器具の活用法、筋力トレーニング、腹式呼吸の練習法など、「本にはすぐ役立つハウツーも盛り込んだ」と話す。「闘病」という言葉は好まない。「闘うと疲れちゃう。病気を“手なずける”という意識」
“個”の確立を
吉武さんの父親は銀行を定年退職した後、55歳で自ら命を絶った。「父は肩書をなくした後、喪失感と孤独感に押しつぶされた。わたくしはそれを目の当たりにしていた」と語る。性暴力被害とともに、拭い切れない心の傷。そんな吉武さんだけに、「一人ひとりが組織に従属しない個人として生きることが大切」という思いは強烈だ。「それができれば、自分の好きなことにたっぷり時間が使える70〜80代は人生100年時代の最高の贈り物になる」。今、自身の“旬”の活動では次世代を強く意識する。08年から女優の竹下景子らとともに、語りと朗読の会も開催し、格差社会に「ノー」を叫ぶ。「若い人が老いることを怖がらなくなるような高齢期の生き方を示したい。そう思うと生きる力が湧いてくる」 |
「万病息災 老いても病んでも『元気』でいるコツ」
吉武輝子著 (講談社・1470円) |
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