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若いころデザインを学んだ 榎木さんは、映画「半次 郎」のポスター制作にも携 わった |
映画「半次郎」で主演
幕末の薩長の争いから戊辰戦争、維新後の西南戦争までの16年間、幕末維新の乱世を疾風のごとく生き抜いた薩摩(鹿児島)の快男児、中村半次郎(のちの桐野利秋)の生涯を描いた映画「半次郎」が10月9日(土)から公開される。同作品の主役を演じるのが俳優・榎木孝明さん(54)。鹿児島出身で若いころから半次郎の映画化構想を温めてきたという榎木さんは今回、企画も担当し制作の中心となって映画化を進めてきた。その榎木さんが「半次郎」への思い入れを語った。
中村半次郎といえば、すぐ頭に浮かぶのは「人斬り」という異名。だが、榎木さんは「半次郎は“人斬り”ではありません」と力を込める。「歴史というのは勝者がつくるもの。敗者の歴史は削除される」と言う。
「人斬り半次郎」というのは池波正太郎が付けた小説のタイトル。この本などで、学はないが非常に剣の腕が立つというイメージが広く世の中に浸透している。しかし、榎木さんによると、半次郎は生涯で1人を斬った記録が残っているだけ。それなのに、「土佐(高知)の岡田以蔵(『人斬り以蔵』)と同列に見られがちなのは心外」というのが榎木さんの熱き心情だ。
混迷の時代の“道標”に
剣の腕は抜群で、私心なく情誼(じょうぎ)に厚く、節義を重んじる—というのが榎木さんの描く半次郎。映画を通じて半次郎を再評価させたい、という思いから制作したという。
物語の舞台は、幕末〜明治。明治新政府が設立されてわずか10年後の1877(明治10)年、維新は成ったが、国中を揺るがす大事件、西南戦争がぼっ発する。征韓論を発端に国論を二分して戦われたこの戦争は日本の最後にして最大規模の内戦。官軍(政府軍)約6890人、薩摩軍約7200人が戦死した戦いは約7カ月にも及んだ。薩摩軍の中心人物である西郷隆盛の傍らに必ず付き添っていたのが半次郎だった。やがて政府軍の城山総攻撃で西郷が被弾し、自決。半次郎も勇戦しつつも戦死する。享年40歳だった。
「混迷の時代だからこそぜひ、見てもらいたい」と榎木さんは言葉に力を込める。その思いは映画の最後に画面に映し出されるメッセージ、「道しるべを持たない若者たちと道しるべになれない大人たちへ」で表現している。
「こんな世の中でいいのかな、とみんな思っているはず。でも、具体的にどうすればいいのかが分からないのでは」と榎木さん。その具体的な人物像が半次郎というわけだ。
得意の殺陣生かす
「半次郎はわたしのあこがれ」という榎木さんは、1956年鹿児島県菱刈町(現伊佐市)で生まれた。陶芸家を目指していた榎木さんだったが、上京して武蔵野美大デザイン科に学びつつ芝居を始める。ある時、劇団四季のオーディションに応募して合格したのを契機に俳優の道へ—。
81年、「オンディーヌ」で初主演。84年、NHK朝の連続テレビ小説「ロマンス」主演でテレビデビュー。その後、「浅見光彦シリーズ」(95年〜、フジテレビ)やNHK大河ドラマなどに出演。武術や古武術で鍛えた得意の殺陣(たて)を生かし、時代劇から現代劇まで映画・テレビ・舞台と多方面で活躍する。
榎木さんは内心、「30代まではいつ俳優を辞めようかと思い続けていた」と言う。ところが、それも40歳になってからは「俳優しかない」と思うように—。「結婚して逃げ道がなくなったんです」と笑顔を見せる。
絵は二次元で表現
榎木さんは俳優の一方で、アジアを中心に世界各地を旅して水彩画を描き続ける画家としても知られる。自然体で俳優と画家を両立させているように見受けられる。「表現するという意味では役者も画家も同じようなもの」と話す。肉体による三次元の表現が役者であり、平面上の二次元での表現が絵画、というとらえ方だ。
今回、榎木さんは、映画「半次郎」を企画するのに伴い、監督やプロデューサーなど主要な人選を自分で行った。制作費用や配給元についても自ら動いた。「いろんなところに頭を下げて回りました。ただ、2年前のリーマンショックで企業がお金を出せない時代になったので苦労しました。いまだに宣伝費が不足しています」
大手の配給会社からそっぽを向かれたため、自分たちのプロダクションを配給元にして映画館と交渉し、ようやく上映にこぎつけた。「苦労しただけに封切り後の世間の反応が楽しみ」と榎木さん。「やり遂げた」という思いが晴れ晴れとした表情に表れていた。
(C)2010「半次郎」製作委員会 |
「半次郎」 日本映画
監督:五十嵐匠、出演:榎木孝明、AKIRA、白石美帆、坂上忍ほか。121分。10月9日(土)からシネマート六本木(TEL.03・5413・7711)ほかで上映。 |
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