「これからも生ある限り歌っていきたい」と松崎しげるさん。ステージに立つと音楽やお客さんから元気をもらえるという
大ヒット曲「愛のメモリー」を歌い続けて、今年でレコードデビュー40年の節目を迎えた松崎しげるさん(60)。昨年、CDアルバム「Yes We Can!!」で元気が出るようなカバー14曲を発表、日本を自らの歌で元気づけようと、「Yes We Can!!」コンサートで全国を回っている。その松崎さんに代表曲「愛のメモリー」誕生秘話などを聞いた。
「世代超える名曲歌う」
色黒の肌がトレードマークの松崎さん。CDのタイトル「Yes We Can!!」はご存じ、アメリカのオバマ大統領の演説に出てくる言葉だ。戦後の日本を形づくってきた団塊世代の一人として、「オバマ大統領の“自分たちがやるんだ”というメッセージがピーンときた」と話す。CDは「上を向いて歩こう」など世代を超えて歌い継がれる14曲をカバー。もちろん、ヒット曲「愛のメモリー」も入っている。「わたしも歌いながら元気をもらっている。音楽の力はすごい」と力を込める。
コンサートなどで今も精力的な活動を続ける松崎さん。これまで何度も「歌をやめよう」と思ったが、続けてこられたのは生のステージが好きだったから。「愛のメモリー」がヒットするまで下積みが続いたことはあまり知られていない。
子どものころからの夢だった高校野球での甲子園出場を高校2年の時、けがで断念。その後、「両親が音楽好きで小さいころからタンゴやブルースのレコードを聴いていた」という松崎さんは音楽の道を志す。
ベトナム反戦で学生運動が激しかった大学時代には、「ミルク」というバンドを作って音楽に没頭する。当時、よく出演していたのは、米軍キャンプ。プラターズやブレンダ・リーら大物とも同じステージに立った。「あの人たち、歌がうまいねえなんて話してたら本物だった」という笑い話も…。
1970年に21歳でソロデビュー。だが、デビュー曲はまったく売れなかった。CMソングで歌唱力が評判になるが、名前や顔を知られることはなかった。そのうちに、ミルクのマネジャーだった宇崎竜童が「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」でヒットを連発。また、ミルクのメンバーだった仲間が「ガロ」を結成して「学生街の喫茶店」をこれまた大ヒットさせた。かつて「音楽で飯を食っていこう」と言い合っていた仲間が次々と世に出ていく—。松崎さんは、「誇らしさを感じると同時に乗り遅れた焦りも感じていた」と振り返る。
あきらめず交渉
そんな時、松崎さんに転機が訪れた。スペインのマジョルカ島で開かれた世界的な音楽祭に出演し楽曲は2位に、自らは最優秀歌唱賞を受賞したのである。それが「愛のメモリー」だった。意気揚々と帰国したものの、国内の反応は冷たい。レコード会社に売り込みに行っても「こんな難しい曲はだめ」と断られる始末。だが、曲に自信があった松崎さんは、ここであきらめなかった。CMで使ってもらうよう直接菓子メーカーと交渉。77年、曲がテレビで流れ出すとすぐに人気を集め、その後レコードが大ヒットした。
翌年、「愛のメモリー」が春の選抜高校野球の入場行進曲に。球児として果たせなかった甲子園出場の夢をこの曲がかなえてくれた。自分の曲で甲子園に入場する高校球児を見て松崎さんは「曲のヒット以上にうれしかった」としみじみ話す。
補聴器に抵抗ない
「歌は3分間のドラマ。その主役を演じるには人生経験が必要」と松崎さん。曲を自分の中で“消化”するために、1日10時間以上もヘッドホンをつけっ放しで曲を流し続けることもたびたび。そのせいか、「6〜7年前から会話が聞こえにくいことに気付いた」と言う。病院で調べてもらったら、聴力が平均値より2段階くらい低かった。それで耳掛け式と、耳の穴に装着するインナー式の補聴器を利用することに。「耳(聴覚)は人間の五感の中ですごく必要なもの。補聴器を付けるのは、歯が痛ければ歯医者に行くのと同じ」と松崎さん。難聴になれば補聴器を付けるのは自然なことであり、「隠すようなことではない」ときっぱり。毎年6月6日は一般社団法人日本補聴器工業会が定めた「補聴器の日」。今年から同工業会のキャンペーンキャラクターとなった松崎さん。補聴器を通して、多くの人が悩む「聞こえ」が改善されるようイベントなどで訴えている。
「聞こえ」の問題が解決した松崎さんの夢は、お気に入りのギターを手にもう一度バンド活動を行うこと。オリジナル曲も準備して夢は膨らむ。
「Yes We Can !!」
松崎さんにとって初めての邦楽カバーアルバム。「愛は勝つ」「YAH YAH YAH」「涙をふいて」など、今も歌い継がれるヒット曲を収録。「愛のメモリー2009」は原曲よりもさらにドラマチックなアレンジになっている。