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「誰かの役に…」それが生きる意味 医師/鎌田實さん |
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「"B級ランチ"が大好き」と鎌田さん。旅先でおいしい店を探すのが得意だとか。健康法は温泉と鎌田さん流「がんばらないスクワット」。やり方は近著「ちょい太でだいじょうぶ」(集英社)に詳しく紹介 |
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活動の原点 いのち・環境・平和
「『いのち・環境・平和』が活動の原点」。長年、地域医療に携わり、「がんばらない」の著作でも有名な長野・諏訪中央病院名誉院長、鎌田實さん(58)はこう語る。年70〜80回の講演をこなす傍ら、チェルノブイリ原発事故被災国やイラクの子どもたちへの医療支援など、精力的に多彩な活動を続けている。
「誰かの役に立っているとき、生きる意味を感じる」と鎌田さんは静かに話す。
遠い昔の父との約束
「東京生まれの東京育ちでひとりっ子」だった鎌田さんが医師を志したのは、心臓病で体が弱かった母親を小さいころから身近に見てきたからだ。タクシー運転手をしていた父は母の医療費を稼ぐため夜遅くまで働き詰めの生活。"寂しがり屋"の鎌田さんはいつしか思うようになった。「母のような人を健康にする医師になりたい」。しかし、進路希望を切り出すと、父は猛反対。高校を卒業したらすぐに働きに出てもらいたかったのだ。鎌田さんは泣きながら進学したいと訴え、ついに父は条件付きで鎌田さんの希望を受け入れた。
その条件とは「お前に自由をやる。その代わり生活費も学費も自分で稼げ。もし医者になれたら、弱い人とか困っている人、貧乏な人を大切にする医者になれ」。父との約束だった。家庭教師などのアルバイトをしながらも、何とか東京医科歯科大学医学部に入学。鎌田さんは夢への第一歩を踏み出した。
大学を卒業した1974年、父との約束を果たすべく医師がいなくて“困っていた”諏訪中央病院(茅野市)に赴任した。当時の同病院は、累積赤字4億円、いつつぶれてもおかしくない「オンボロ病院」だったという。
病院の立て直しと地域の健康のため、鎌田さんと同僚の医師らは必死で考えた。そして「薬で治す医療だけではなく、自分たちの生活を見直して健康を回復していく医療もある」と同病院の方針を決める。
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鎌田さん(右奥)も参加したバリアフリー旅行での様子 |
温かな行為が 温かな連鎖を
最初は「あそこの病院は注射もしてくれない」と住民からの苦情が多かったものの、勉強会を開くなどコミュニケーションを深めるうち、徐々に住民の意識が変わっていく。以来、一貫して「開かれた病院、住民とともにつくる医療」を実践してきた。
鎌田さんが同病院に赴任してから30年余り、今では地域医療のモデル病院のひとつになり、全国から視察に訪れる人が絶えないほどに成長した。
鎌田さんは地域での活動の傍ら、世界へも目を向ける。91年、日本チェルノブイリ連帯基金を設立し被災国を支援。04年からはイラクの小児病院への医療支援も始めた。「温かな行為は、温かな連鎖を生むんです。戦後の日本がそうだったように。だから僕は自分のできる範囲でやれることをやっていきたい。そのささやかな行為が世界平和につながると思っています」と鎌田さん。
また、「僕は旅好き」という鎌田さんは、おととしからクラブツーリズムが企画するバリアフリー旅行にも協力している。ヘルパーやボランティアが同行し、障害や高齢などさまざまな理由で普段旅に出る機会の少ない人に旅行の楽しさを味わってもらおうという企画で鎌田さんも毎回参加。
「自分は年だからとか、障害があるからといって、外に出ることをあきらめてほしくないですね。医師の僕がいることで少しでも安心していただけたら」
自身の著作にちなみ「『がんばらない』けど『あきらめない』」が口癖の鎌田さん。でも、妻からは「(がんばりすぎて)バカじゃないの?(笑)」と言われるという。
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