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災禍の時代を共に生きる フリージャーナリスト・土井敏邦さん |
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土井さんは横浜市内の自宅のパソコンで、映像作品の編集に当たる。「全て僕一人で作っている。ただ、公開前に信頼できる人の意見を聞いて、納得できたところは直します」。ずっと独身だったが、50歳で結婚。「精神的にも金銭面でも、妻にはあらゆる面で助けられている。彼女がいなければ、映画を作ることはできなかった」。東日本大震災後、福島取材のため「ペーパードライバー講習」を受講した。「お金にならない仕事ばかりしているから、いつも車中泊です(笑)」 |
ドキュメンタリー映画「津島―福島は語る・第二章―」を監督
災禍の時代の人間を描く—。フリー・ジャーナリストの土井敏邦さん(71)によるドキュメンタリー映画「津島 —福島は語る・第二章—」が現在、都内の映画館で上映されている。東電福島第一原発事故から間もなく13年。福島県浪江町津島地区は第一原発から約30キロ離れているが、今もほぼ全域が「帰還困難区域」に指定されたままだ。パレスチナ情勢を長年取材してきた土井さんは、双方に「奪われた人間の尊厳と権利」を見る。その上で、こう明言する。「信じ難いほど過酷な中でも、人は『キラリと光るもの』を見せてくれる。それは僕の“宝物”。そして作品の“命”です」
《帰ることがかなわなくとも、私の故郷は確かに“ここ”にある》
「津島 —福島は語る・第二章—」は、津島を「故郷」と思う18人の証言集だ。戦後の開拓の歴史、濃密な人間関係、伝統文化、そして原発事故後の「(帰還は)100年間は無理だろう」と言われたときの衝撃、避難先での家族との死別、いじめ…。映画は、津島のかつての日常も映し、今との落差を浮き彫りにする。ただ、証言者の多くは静かに言葉を紡ぎ、憤りをあらわにすることはほとんどない。監督・撮影・編集・製作の全てを一人で担った土井さんは、こう話す。「(被災者が)落ち着いて心の中を言語化するまでには時間が必要。事故から10年以上たったからこそできた作品だと思います」
40年を超す取材歴の中、「大抵は抑圧される側や少数派の中にいた」と言う土井さんは、自身を「劣等感の塊」と言い表す。「上から目線になりようもなく、肩書もない。そんな自分になら、(取材対象者は)『心の中を語ってもいい』と思ってくれるのかも」。佐賀県牛津町(現・小城市)に生まれ育ち、大学の医学部を狙ったが、「3浪もしたのに駄目」。広島大学総合科学部に進学後も、「(医学部を受験し)またも不合格。人生の目的を見失い、世界放浪の旅に出た」と回想する。
アフリカでの医療に尽くしたシュバイツァーの足跡を訪ねた後、イスラエルからガザ地区へ。「ベトナム戦争世代」でありながら、受験一筋で“ノンポリ”だった土井さんは、「現地でパレスチナ問題といきなり出合い、すごくショックを受けた」と言う。大学卒業後、雑誌記者として取材活動を開始。1985年からはパレスチナ・イスラエルに断続的に滞在し、週刊誌「朝日ジャーナル」などに記事を載せ、「アメリカのユダヤ人」(91年)などを著した。93年からは映像分野にも活躍の場を広げ、テレビの特集番組などを製作。イスラエルの元将兵が加害の実態を告白した映画「沈黙を破る」(09年)など、劇場公開作品も数多く手掛けている。
人を「固有名詞」で
沖縄の在日米軍基地問題や日本政府の難民政策など、国内の取材にも取り組んできたが、東日本大震災の直後は、「自分に何ができるのかと…、被災地入りをためらった」。だが、福島県内に入ると、「パレスチナが重なって見えた。ここにも『人災』で故郷を追われた人たちがいると…」。震災翌年の12年と13年、同県飯舘村に取材した映画2作品を発表。19年には全章版320分、劇場版170分の証言ドキュメンタリー「福島は語る」を公開し、文化庁映画賞文化記録映画部門優秀賞を受賞した。「津島」はその続編だが、福島の各市町村の住民が登場する前作に対し、人口約1400人だった津島地区に焦点を絞った。昨年3月、一部解除となったものの、地区の98・4%は今も放射線量の高い「帰還困難区域」。土井さんは「線引きによる分断がないためか、津島の団結力はすごく強い」と感嘆する。「家族、共同体、望郷…、世界に通底する普遍的なテーマがこの地にはある」。21年春から各地に散らばる津島の人々を訪ねる「インタビューの旅」。人気テレビ番組のコーナー「DASH村」の舞台にもなった津島の四季も収め、作中に織り込んでいる。半面、「反原発」の主張やそれに絡む動きは極力削った。「僕は人間を等身大で、そしてそれぞれ違う顔を持つ『固有名詞』で描く。社会問題は、人の後ろにおのずから見えてきます」
すさまじい苦難のパレスチナにおいて「他者を思いやる優しさ」を失わない人間に出会った感動を思い返し、言葉を継ぐ。「形は違っても、僕は福島の人たちから、相通じる“輝き”を感じています」
そんな土井さんだけに福島に思いを寄せながらも、「ガザの惨状」が片時も頭から離れない。これまで脳梗塞で2度倒れたこともあり、「パレスチナの現地取材はもうよそうと考えていた。でも…、この目で見届けたい」。自身が撮ったガザの映像30年分を昨年末から再編集し、映画「ガザ—オスロ合意から30年の歩み—」を先月完成させた。「マス(集団)で報道されると、『パレスチナにはテロリストばかり』などというとんでもない誤解が生じかねない。この作品も多くの人に見ていただきたい」。ガザ在住の知人から現況を直接聞き、「ガザ救援」の募金活動にも力を注ぐ。自身の現役としての活動を「あと10年くらいかな…」と予想した上で、こう話す。「だから今、猛烈に焦っている。やりたいことがたくさんあります」
「津島」の証言のうち、この言葉も土井さんの胸に宿っている。
《「あえて津島という小さな一地域は切り捨てても、どうということない。十分な補償をすれば、それでいい」と言う人がいるかもしれない。しかし、その考えは、津島地区に限らず“人間を切り捨てる”という思想につながっていくし、現に切り捨てている》
土井さんは穏やかな表情で言葉を添える。「その人と同様、僕も『それはあってはならないこと』と考えています」 |
© MASAYA NODA |
「津島 —福島は語る・第二章—」
監督・撮影・編集・製作:土井敏邦。187分。日本映画。
16日(土)から、シネマ・ジャック&ベティ(Tel.045・243・9800)で上映。 |
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