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  横浜・川崎版 平成29年8月号  
弾き語りで人生紡ぐ  ジャズ歌手・ホキ德田さん

「ホキ」は、カナダ留学時、本名「浩子」を発音できないルームメイトによる愛称。お店のピアノは客席テーブルとほぼ一体となっており、曲のリクエストがあればホキさんが即座に弾きこなす。だがピアノの上に譜面台はない。「プロですから何も見ずに弾くのは当たり前。1000曲以上は頭に入っています(笑)」
米文豪ヘンリー・ミラーの「最後の妻」
 六本木にあるこぢんまりとした隠れ家的ピアノバー「北回帰線」。同店を経営し、毎夜、客と“ゼロ距離”で弾き語りするジャズ歌手のホキ德田さん(79)。奔放な女性遍歴を持つアメリカの文豪ヘンリー・ミラーの「8番目の妻」—。“50歳近い年の差婚”というセンセーショナルな話題とともに語られることが多いが、ピアノの名手であることは意外と知られていない。そんなホキさんが31日、ジャズの街・横浜でコンサートを開く。「ゴシップが独り歩きしいろいろと誤解を受けてきましたが、コンサートでは一人のピアニスト、シンガーとして、お客さんを楽しませたい。そしてあらためて弾き語りで、自身の生きざまを紹介したいですね」

 ホキさんは1937年、国際連盟の職員だった德田六郎の娘として東京・上野で誕生。名家の家柄で声楽に造詣が深い母の薫陶の下、3歳からピアノのレッスンを開始。「戦時色の濃い時代でしたが両親はちょっとした夫婦の語らいは英語で話すなど、とてもモダンな人たちでした」



 だが、そんな生活も戦争で一変。ホキさん一家は八王子に疎開するが、終戦の2週間前、空襲で家が全焼、全財産が灰となった。また疎開先でモダンな一家はあまりにも目立ち、「英語を話しているからスパイだ」と村八分状態に。

 「毎朝、家には梅の実が投げ込まれ、通っていた小学校の担任からも後ろ指を指されました。このときの怒りはいまだ消えていません」

 戦後も一家の財政状況は厳しいままだったがホキさんへの音楽教育は継続。高校卒業後に奨学金でカナダの大学に音楽留学、最優秀の成績で卒業した。帰国後の58年、当時NHKで解説委員をしていた父に誘われ同局のドラマに出演、芸能界への一歩を踏み出す。同年、女声ジャズコーラスグループ「スリー・バブルス」を結成し歌手活動も開始。だが、1年余りで脱退する。

 「アメリカのプロモーターから誘いがあったのです。当時の日本の芸能界はいろいろな偏りが多く、窮屈に感じていた私には渡りに船でした」。ハワイや米本土で約2年、芸能活動を体験。厳しい一面もあったが、日本に比べ“フェアな空気”を感じたという。

 帰国後はピアノの腕を買われ、新橋の会員制高級ナイトクラブで弾き語りを開始。常連だった中曽根康弘(当時衆院議員)の歌うシャンソンに合わせてよく伴奏もしたという。

ピンポンがきっかけ
 芸能界にも復帰したが、チャンスがあり65年に再び渡米。プロモーターはホキさんをハリウッドでデビューさせたかったらしいが条件が合わず、同地の老舗日本料理店で弾き語りを始めた。ジョン・レノンやロバート・デ・ニーロなど、世界中のセレブやハリウッドの有名人が足を運ぶ店だった。当時セレブの一部ではピンポンが流行。卓球が得意だったホキさんは、知り合いにある人物を負かしてほしいと頼まれる。それがヘンリー・ミラーとの出会いだった。ピンポン対決はミラーに軍配が上がったものの、ミラーはホキさんにぞっこん。連日店に足を運ぶように。

 「ヘンリーさんが『ホキは僕のフィアンセ』と言いふらし始め、ほとほと困りました。彼は70半ばのおじいさん。対して私は30前。ヘンリーさんは楽しい人。彼を好きでしたが、未来ある結婚生活は望めませんよね」

 だが、ホキさんは結婚を決意する。背中を押したのはビザの期限だった。「帰国するくらいなら、結婚してアメリカの市民権を取ってしまおうかと…」

「誤解、まだ多い」
 67年に結婚。しかし、当時世界中に熱狂的な支持者がいた文豪ミラーとホキさんとの“年の差婚”は、ミラーの女性遍歴と相まってゴシップとして全世界に報道された。日本でも多くのゴシップ誌をにぎわせることに。

 「“スキモノ”“遺産狙い”と今でもいろいろ誤解されていますが、ヘンリーさんとは寝室は別でしたし、お金も私の方が稼いでいたくらいでした」。いくら高名な文豪でも、そのころはもう印税は入らず質素な生活を送っていたという。ただし、普通の夫婦のような生活は送れず、「私は彼の秘書兼お世話係みたいなものでした。世界中にいる彼のファンからの電話や手紙に応対していましたが、疲れ果てました」。

 結局、不自然な形での夫婦生活は破たん。ホキさんはミラーの死後、2000年に帰国。一時は芸能界に身を置いていたが、10年、ヘンリー・ミラー没後30年の節目に、「北回帰線」を開店する。ジャズの弾き語りと隠れ家的な魅力、そしてホキさんの明るい人柄にひかれたファンたちにより、店は毎夜にぎわう。「ピアノバーは客と歌い手の心がじかに触れ合う場です。コンサートでも物理的には無理でも、心理的には“ゼロ距離”でお客さんと触れ合いたいですね」


在りし日のヘンリー・ミラー(左)とホキさん。「北回帰線」店内には、ミラーとの思い出の品の数々が置かれている
♪ホキ德田の部屋  ~My Way~♪
 31日(木)午後1時半、横浜みなとみらいホール(みなとみらい線みなとみらい駅徒歩3分)小ホールで。
 ホキ德田がホストになり観客を迎え、ピアノの弾き語りで一緒に歌ったり、おしゃべりを楽しむ。
 予定曲:「Tennessee Waltz」「My Way」ほか、リクエスト曲。
 全席指定4500円。問い合わせはインターナショナル・カルチャー Tel.03・3402・2171

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