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石原裕次郎生誕80年 妻で石原プロ会長・石原まき子さん |
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「生前、裕さんは『大切なものは1にヨットで2に車、3、4がなくて5に女房』と言っていました(笑)」。ヨットに懸ける情熱を密着取材したドキュメンタリーも放送する |
「黒部の太陽」ほかCSで特集放送
タフガイが帰ってきた! 日活が手掛けるCS映画チャンネル「チャンネルNECО」では、俳優・石原裕次郎の生誕80周年を記念して、12月、1月に2カ月連続で特集放送を行う。五社協定の圧力を跳ね返して作られた「黒部の太陽」や、テレビ初放送となる「栄光への5000キロ」など映画8作品と、イギリス・ワイト島のヨットレース出場を追ったオフショット満載の貴重なテレビ番組など含め、計10作品を放送する。放送にあたり、裕次郎の妻で石原プロモーション会長の石原まき子さん(81)に思いを聞いた。
「黒部の太陽」(1968年)は、「映画は大きなスクリーンで見てほしい」という石原裕次郎の遺言により、長年ビデオ化されず、幻といわれていた作品だ(13年3月にDVDを発売)。
しかし、3年前、東日本大震災のチャリティーを目的に長年の封印が解かれ、44年ぶりに全国各地で上映。敗戦の焼け跡から復興するため、世紀の難工事といわれた黒部ダム建設に命を懸けた日本人の姿は、再び多くの人々を勇気付けた。
この作品は、当時の映画業界にあった五社協定の壁を打ち破って製作された初めての映画でもある。これは画期的な出来事であった。所属会社の異なる裕次郎と三船敏郎両氏はなんとか製作を実現しようと懸命にもがき、2年ほど内密に動いていたという。繰り返される「GOサイン」と「待った」に振り回され、涙する日もあったとか。当時、その姿をそばで見ていたまき子さんは、「裕次郎さんはまだ若かったから、もっとスムーズに行くと思っていたみたい。裕次郎さんが初めて知る、大人の世界の厳しさだったのでは」と話す。
信念は曲げなかった
撮影が始まってからも苦労は多く、破砕帯が崩れるシーンでは、噴き出す水の衝撃で指を骨折。
「病院に掛け付けたら、裕さんはベッドの上にあぐらをかいて座って、にっこにこ笑ってた。折れた指をぶらぶらさせて『やっちゃったぜー』って。『だけど、(骨折したのは)俺だけだったんだから、いいんだよ』と。これが裕次郎なの」
一方、共演した三船敏郎のこの作品に懸ける思いもすさまじかった。物語の終盤、トンネル完成の喜びとわが子を亡くす悲しみを同時に表現するため、トンネル貫通のシーンの撮影前日は一睡もせず、目を真っ赤に充血させて挑んだという。
「やっぱり、áÄ世界のミフネá≠ナすね。裕次郎さんと三船さんはとても気が合っていました。だから『黒部の太陽』は完成したんだと思う。多くの反対に心が揺らいだこともあったと思うけれど、2人とも信念は曲げませんでした」
「黒部の太陽」は、何度見ても新しい発見と感動があるとまき子さん。実際、まき子さんは細かいシーンのすみずみまで記憶しており、作品への強い愛情を感じられた。
石原裕次郎が死去して四半世紀になる。
「今でもこうやって裕次郎さんの話を聞きたいと思ってくださる方がいる、今でも裕さんを見てくださることに非常に感謝しています。若者にあれだけの影響を与えた石原裕次郎という人を、本当に誇りに思っています」 |
「黒部の太陽」©三船プロ/石原プロ |
2カ月連続企画 生誕80周年 石原裕次郎ザ・プレミアムベスト
Part1 「狂った果実」「嵐を呼ぶ男」
「太平洋ひとりぼっち」「ADMIRAL'S CUP マイナス1977マイナス 裕次郎は燃えた!」「黒部の太陽」
28日(日)午前9時〜29日(月)午前0時、5本を一挙に放送(午後1時〜5時を除く)。
Part2 「栄光への5000キロ」「あいつと私」「俺は待ってるぜ」「銀座の恋の物語」「木曜スペシャル 独占企画!石原軍団INハワイ」
1月1日(木・祝)〜31日(土)に5本を順次放送。「黒部の太陽」の再放送も。 |
「チャンネルNECO」の視聴はスカパーや近隣のケーブルテレビなどへの加入が必要。問い合わせは Tel.03・5689・1035 |
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