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「じっとしているのが苦手」と話す正司歌江さん。ワハハ本舗に入団時、ポスター撮影の現場で腰を打ち腰椎を圧迫骨折したが、今もリハビリを続け舞台に立つ |
2009年5月、“80歳の大型新人”として劇団「ワハハ本舗」に入団した正司歌江さん(81)。昭和30〜40年代に姉妹音曲漫才トリオ「かしまし娘」で活躍。新境地での経験に四苦八苦しながらも、「年齢に応じた考え方の切り替えが必要」と笑う根っからの芸人だ。23日(木)には相模大野で舞台も予定している。「仕事は生きる活力。役に立てるなら、どんなことでもしたい」と、生涯現役を誓う。
80歳で「人生切り替え」
両親が旅役者だった歌江さんは3歳で初舞台を踏んだ。「旅芸人は河原こじき」といじめる土地の子どもをよそに、「両親から『芝居で家族を助けてくれて親孝行』と教えられ、うれしかった」と歌江さん。12歳の時、妹の照枝と組んだ姉妹コンビは「天才少女漫才」と喝采を浴び、「戦時中には軍事関係の工場や造幣局などに慰問で訪れた」と振り返る。
戦況が激しさを増す中、体調を悪くした母が45年2月に死去。「二度目の母とはウマが合わなかった」と歌江さんの生活は荒れ、波乱に富んだ人生を歩み始めることに。親の反対を押し切って18歳で出産…。深酒や薬物で身も心もボロボロの一歩手前になったことも。大阪の家を飛び出し、富山で10年近く芸者として働いた。
「もう一度漫才をやらないか」。歌江さんの借金を肩代わりし、大阪に呼び戻した人物が松竹芸能創業者の勝忠男氏(故人)だった。
人の“いいところ”探す
長女(歌江)、次女(照枝)、三女(花江)による姉妹音曲漫才トリオ。「ギターと三味線を弾き、流行歌や浪曲を取り入れた新しい漫才を」と勝氏自らプロデュースし、56(昭和31)年、「かしまし娘」が誕生した。「♪ウチら陽気なかしまし娘」のテーマ曲とともに親しまれ、不動の人気を得た。
ところが、81(昭和56)年、その勝氏によって活動休止に。「かしまし娘は今の時代やない。定年しなさい」。寝耳に水の発表にショックを受けた歌江さんは松竹芸能を辞め、一人東京へ。その後、女優業や講演の仕事に生活の基盤を求めたものの、「なかなかうまくいかずに、ひがむこともあった」。
再会の契機は95(平成7)年に発生した阪神・淡路大震災。勝氏の安否を気遣い、手紙を送った歌江さん。10数年ぶりに会い、「お互い涙を流して抱き締め合った」。勝氏の計らいで、歌江さんが切望した、かしまし娘による芝居「三婆」(有吉佐和子作)も実現。「物語の舞台やセリフを大阪版に変え、多くの人に見てもらえた。思い出深い舞台です」
ところが所属先の芸能事務所が07年に倒産。歌江さんは古巣・松竹芸能を経てワハハ本舗へ。「一見マニア向け」「ポジティブ思考の舞台で元気が出る」…。さまざまな評判がある劇団だけに心配する知人もいたが、「何も知らずに飛び込んだ」と歌江さん。
とはいえ、芸風の違いはあまりにも衝撃的。「初稽古の時、目の前で下半身を出す若手に驚き、泣いてしまった」。思わず退団を決意したという歌江さんを引き止めたのは、「あの劇団の人たちは爽やかよ」と笑う地元飲食店主の言葉。歌江さんは「自分の中のどこかに『かしまし娘の正司歌江』という意識が残っていた。しがみつくのも大事だけど、納得いかなくてもやる。年齢に応じて考え方を切り替える必要があると、このごろつくづく感じます」。
30歳の時から続く講演もライフワークの一つだ。「自分の失敗談や姉妹の話が中心。会場の雰囲気に合わせ、新聞やテレビで知った情報も話します」。自身の経験から差別問題、覚せい剤撲滅について語ることも。
「自分勝手で“人嫌い”な人が多い」と分析する昨今、定年世代には友人の多い晩年を勧める。そのためには「人のいい所を見るように」と。「人が大好き」と言い切る歌江さんだけに、時間があれば各地の友人の見舞いや四国巡礼に出掛け、人との出会いを楽しむ。
芸能界の重鎮とはいえ、劇団員としては新人。歌江さんもその心持ちは忘れない。「自分から楽屋にあいさつ回りに行くのは当然。会えない時は来るまで待つ」とさらり。昨年末、歌江さんにとっては異例の長期休暇があった。「10日も休んだことがなかったし、31歳で結婚してから初めて」と苦笑する。
「自分は働くことしか知らない人間。役に立てるなら、どんなことでもしたい」 |
公演「ワハハの力」
23日(木)午後6時半、グリーンホール相模大野(小田急線相模大野駅徒歩4分)大ホールで。
第1部は、豪華絢爛(けんらん)エンターテインメントショー。第2部は、笑いと涙と感動のミュージカル。
構成・演出:喰始、出演:大久保ノブオ、柴田理恵、久本雅美、正司歌江ほか。
全席指定、前売りS席7800円〜同A席6800円。チケット予約はサンライズプロモーション東京 TEL.0570・00・3337
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