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戦前から暮らす保土ケ谷区の自宅で。
「幸いにもこの家は焼けなかったんです」 |
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戦後の横浜伝える写真集
喜寿を迎えた三橋松太郎さん(77)が、今月、戦後の横浜市民の日常を写した写真集「ハイカラさんがいた街 よこはま」を出版する。若き頃、写真家の道を夢見たが、経済事情からあきらめた。定年後は妻の介護に17年を費やし、また自身の足のけがもあって、カメラを手にできない日々が続いた。そこで、青春時代に夢中で撮りためた写真をまとめることを思いつく。「おかげで過去を振り返ることができたし、本も出版できた。うれしいです。夢や定年後のプランを早々にあきらめてよかった」と、「けがの巧妙」を喜ぶ。
太平洋戦争が終わって数年後、三橋さんは中古カメラを手に入れた。すぐさま夢中になりプロの写真家になることを夢見た。しかし父親が死去し、一家の大黒柱として稼がねばならなくなる。必然的に夢はあきらめたが、週末になればカメラを片手に横浜港、日の出町、三溪園など横浜中を走り回った。写真集には当時の横浜の市民の暮らしが余すことなく収められている。
「戦後の横浜には、金髪の本当にきれいな“ハイカラさん”がいる一方、黒人との混血児を産みながらもたくましくバラックで暮らす日本人女性もいた。特殊な都市でした」
文章では語りつくせない感情、情景をそのままに記録できるのが写真。三橋さんのとらえた横浜の風景は、戦後を生きた人が共有した痛みと幸せを思い出させる。
「大変な時代でしたがみんなよく頑張ってきたと思います。雪の中でも子どもははだし。でもお正月にはどんな子も晴れ着を着ていて、日本人の心は廃れていなかった」
妻の介護で新作は断念
当時「麻薬の巣くつ」だった日の出町に出掛けた時は体が震えた。しかし意外にも住民の男たちは喜んでシャッターを切らせてくれた。船を見送る外国人の母娘にレンズを向け、家族の男に「ヘイ、ジャップ!」と手で追いやられたこともある。
高度成長期に入ると三橋さんも仕事で多忙を極め、自然とカメラからは離れていった。「そのうちぼちぼち再開して、定年したらまた本格的に始めようと思っていましたが、定年の2年前に妻が倒れ介護をすることにしましたので、
新しい作品を撮って個展を開くことはあきらめました」。「自宅で送ってほしい」という夫人の意思を尊重し、三橋さんは17年間在宅介護を続けた。その間、自身の足も痛めてしまった。もう重いカメラを持って出歩くことはできない。新しい作品が撮れないならと、青年期に撮った作品をまとめて出版することを思いついた。資料を集め04年に「煌きの瞬間」を出版、その後3冊の出版を経て今月、「ハイカラさんがいた街 よこはま」の上梓にいたった。
「もし妻もわたしも元気だったら、過去を振り返らなかったと思います」と三橋さんは言う。同じく、プロになる夢もきっぱりあきらめたのはよかった、と振り返る。
「アマチュアなら納得のいくものを時間をかけて撮ることができますからね。今は、開港150周年に立ち合えること、横浜を通して、集大成となる写真集をまとめることができたことをとてもうれしく思っています」
あきらめた夢のかわりに、三橋さんは充実した現実を手に入れたのだ。
横浜港で(1953年)
※写真集より抜粋 |
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日の出町の女の子(1956年)
※写真集より抜粋 |
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