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“一本の線”の可能性追究 アニメーション作家・古川タクさん |
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昨秋には小学生と3歳の孫を思いながら、初めての幼年童話「ゴッディくん」(理論社刊)を描き上げたという古川さん。「たまには星空や大きな世界に目を向けてほしいなという願いを込めました」。「コロナ禍」の現在はなるべく家にこもり整理をするほか、近所を散歩すると話す。「おかげで、地元・府中の自然や歴史的なものにも興味が湧いてきました。40年も住んでいて何も知らなかった自分が恥ずかしくなりました(笑)」 |
「ユーモアの発信」を原点に、長年アニメ界で活躍 漫画やアニメなど、世界を席巻する「クールジャパン」。その草分けの一人として、長くアートアニメーションの世界で活躍しているのが、日本アニメーション協会会長を務める古川タクさん(79)だ。その作風はアニメの原初の形を残す線画アニメ。プルプルと不安定に動く線画がさまざまなものに変化、とぼけたユーモアとマッチし見る者を引きつけてやまない。お茶の間では龍角散のCMなどでおなじみだろう。そんな古川さんの作品の一つ、シャンソン歌手クミコが歌う「最後だとわかっていたなら」の歌詞に合わせ、介護に直面した親子の姿を描いたアニメが好評だ。「一本の線でどこまで描けるか挑戦したい。世界を笑いに包むユーモアをアニメやイラストで紡いでいきたいですね」
クミコが今も歌い継ぐ代表曲の一つ「最後だとわかっていたなら」(2018)。同曲の詞は、もとは10歳の子を亡くした米国人女性による一編の詩。それが01年のアメリカ同時多発テロで亡くなった消防士の手帳に書き残されていたことから、テロ追悼集会で朗読され世界中に感動を呼んだ。そんな“後悔せずに今を生きることの大切さ”を描いた詩にクミコは、「親の介護に直面している自分の心情を歌っているようだ」と感銘。コンサートで歌い始める。さらに自分の“思い”を、歌っている自身のバックでアニメとして流したいと、古川さんにコラボレーションを持ち掛けたという。「僕はクミコさんとその親の中間の世代。親をみとってもいるので、両方の気持ちが分かります」と古川さん。みとった側は「もっと何かしてあげればよかった」と自分を責めてしまうもの。「けれど、その気持ちや経験を次の世代に伝えることこそがいろんな意味で社会にプラスになると思います。このコラボで自分もアニメとして世に発信することができてうれしかったですね」
手塚治虫に憧れて
幼少時からディズニーアニメに魅せられ、手塚治虫の漫画にどっぷり“ハマって”いたという古川さん。だが、中学生時代に目にした雑誌「漫画讀本」で紹介されていた欧米の漫画、特にアート志向の強いヨーロッパのものに引かれていく。「高校時代、手塚治虫に憧れ漫画を描くようになりましたが、描いたのは手塚漫画とは違う、いわゆる『ガロ』系でしたね(笑)」
大学時代は大阪で過ごした。音楽にも興味を持ったが、漫画やアニメへの思いも断ちがたく、卒業が近くなったある日、東京の広告制作会社・日本テレビジョン(現・TCJ)がアニメ制作スタッフを募集していると新聞で目にし、即上京。就職活動の一環として面接を受けたつもりだったが、「あしたから来てくれ」と言われびっくり。同社は当時、テレビアニメ「鉄腕アトム」の盛り上がりを受け、アニメ番組制作に進出。作画スタッフをかき集めていたのだ。古川さんはやむなく東京に残り、テレビアニメ「鉄人28号」(第1作、1963年〜66年)の制作にアニメーターとして参加。腕前を大いに評価されたが、4話までつくったところで、大学から緊急の電話。「今どこにいる。卒業できなくなるぞ!」
同社を退社し帰阪するが、古川さんはアニメ制作のキャリアを捨てるつもりはなかった。アニメーター時代に目にした久里洋二のアートアニメーション「人間動物園」(62年)に感動。「これしかない!」と思い、大学の必要単位を取得したら卒業式にも出ず再び上京。「アポイントメントもなしに久里さんの門を文字通りたたきました」。幸運なことに席に空きがあり22歳で「久里実験漫画工房」に入所。師の手伝いをしながらアニメの技法や、アーティストとしての生きざまを学ぶ。
3年半後の68年に独立。当初は「食えなかった」というが、翌年、フランス・アヌシー国際アニメーション映画祭に出品した自主制作アニメ「牛頭」が入賞したのを皮切りに、雑誌でのイラスト、漫画執筆やNHK「みんなのうた」のアニメ制作、企業広告の仕事などが舞い込み、経済的に安定していった。03年には東京工芸大学でアニメーション学科を立ち上げたほか、多様な仕事により商業と芸術の間で日本のアニメ業界をけん引。04年に紫綬褒章、12年には旭日小綬章を授与される。「業界の草創期から好きなことをやってきただけですが、“パイオニア”として評価いただいたのでしょうね」
「先輩の恩、後進に返す」
現在の古川さんは楽しいことだけを探して生きているという。「スケジュールはまず遊び優先。仕事は自分が面白そうと思ったものしか入れません(笑)」。だが、後進のアートアニメーション作家の発表の機会が限られていることは気掛かりだと話す。「僕も先輩からさまざまな恩恵をいただきました。今後は自分の番。後輩や業界にこの恩を返していきたいですね」 |
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