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美術館をオープンしてから平均来館者数は1日10人程度。「川越市やさいたま市、ふじみ野市、杉戸町などいろんなところから来てくれます」と鈴木さん。美術館を開設できたのも、「足尾銅山を描き続けてきたからこそ」と話す |
草加市に私設美術館を開設
1980年代から約40年、「足尾銅山」を描き続けている画家・鈴木喜美子さん(73)がこのほど、草加市に私設美術館「ミュゼ 環(かん)鈴木喜美子記念館」を開設。これまで描いてきた300号の大作を含む100枚を超える作品の一部が展示されている。足尾銅山というと、日本における公害の原点といえる場所。その工場跡やはげ山となった山肌を描いていると、「自然の力を軽視した人間の愚かさが見えてきます」と鈴木さん。「今の時代も足尾銅山に教えられることは多い」と話す。展示する足尾銅山の絵は年3回程度入れ替えていく考えで、2月に最初の展示替えを行う。
「ミュゼ 環」は自宅を改築し自宅併設の美術館として昨年10月にオープンした。「ミュゼ」はフランス語で美術館、「環」は人生も自然も巡っていくという意味を込めて名付けた。「たとえ小さな美術館であっても、何か伝えられるものがあれば」と思ったのが、美術館を開設する動機だという。
鈴木さんが「足尾銅山」と出合ったのは75年夏。当時、30代前半だった鈴木さんは日光へ写生旅行に行く途中だった。足尾銅山の景色を見た途端、「わっと攻められるような強い衝撃を受けました。西日がまぶしいほど山肌に当たっていたのを覚えています」。そのとき以来、足尾銅山は画家として取り組むテーマとなった。
江戸時代に松尾芭蕉も歩いた旧日光街道の宿場町・草加。そんな商店街の一角に江戸から続く海産物店に生まれた鈴木さんは、高校卒業後、絵の道を目指そうと画家の福島誠氏に師事。武蔵野美術大学を卒業後、地元草加市や越谷市にある小中学校の教師に美術を教えていた。ところが、30歳を前に両親が相次いで亡くなった。「母がくも膜下出血、父は直腸がんでした」と鈴木さん。「それまで親がかりで生活していた」鈴木さんは目の前が真っ暗に—。そんな鈴木さんを“教え子”の小中学校の教師10人が支えてくれた。
足尾銅山を訪れたのはまだ、両親が死去したショックから立ち直れないでいたころ。あまりの衝撃の大きさからすぐに足尾銅山を描くことができず、ようやく絵筆を取ったのは1年半〜2年近くたってからだった。「この衝撃は何だろうと、最初のころは毎週のように足尾銅山を訪れていました」と鈴木さん。
足尾銅山は江戸時代に開発された鉱山で、明治期から昭和前期にかけて日本最大の銅産出量を誇り、日本の近代産業発展に大きく寄与した。しかし一方で、製錬所の煙による大気汚染や廃棄物による水質および土壌汚染による、いわゆる足尾鉱毒事件を引き起こした。鈴木さんが訪れたとき、精錬所はまだ稼働していたが採鉱は停止しており、鉱毒ガスや酸性雨などではげ山となった閉山後の静けさが異様な雰囲気を漂わせていたのかもしれない。
今も月1回は“足尾”へ
鈴木さんはそんな足尾銅山の風景を無我夢中で描いてきた。時の流れと共に足尾銅山の風景は変わり、鈴木さんの心情も変わる。最初の80年代は雪景色が多く、モノクロ調の画面だったが、年代を下るに従って色彩が加えられるようになり、最近は春の足尾銅山を描く。「足尾銅山のような場所は風光明媚(めいび)でもないし、画家が喜んで描くところでもない。でも、絵描きとして、こういう題材、主題に出合えたのは大きな喜び。幸運だったと思っています」と話す。
約40年の間に地元住民や工場関係者と交流を深め、優先的に工場内に入れてもらえるようにもなったという。
今も月1回は足尾銅山に行く、という鈴木さん。そうやって描いた作品は100点を超え、美術館裏のスペースに置かれている。
「気が付いたらこんなに長く足尾銅山を描いてきましたが、政治的なことに関心があるわけではありません。ただ、今の経済発展の裏にはこういう問題があったということを感じ取ってほしい」と鈴木さんは話す。 |
◇ミュゼ環 鈴木喜美子記念館◇
東武スカイツリーライン草加駅徒歩7分。開館日は、毎週金曜〜日曜午前11時〜午後4時。入館料大人500円、高校生以下100円。10人以上は要予約。年末年始は休館。
問い合わせは Tel.048・960・0388 |
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