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全国を音楽活動で旅してきて、「日本の風土の素晴らしさに愛着がある」と言うあがたさん |
戦後の高度経済成長が終えんを迎えようとする1972(昭和47)年、昭和初期のムード漂う歌がヒットした。「赤色エレジー」である。当時約50万枚を売り上げた、この曲を歌ったのがあがた森魚(もりお)さん(62)。以来、39年間でアルバムを30枚以上発表するなど歌手として精力的に活動している。しかし、還暦を過ぎた今も本人は「まだ、自分らしい作品ができていない」と模索中だ。「80歳まで歌い続けたい」と意欲を見せる、この“あがた森魚的生き方”のエネルギーはどこから生まれるのか。
♪キューポラのある街
あがたさんは7年前から、東京と荒川を挟んで位置する川口に住んでいる。「以前から住んでみたかった。海はないけれど荒川に面し、かつて町から町を流れ歩いた鋳物師(いもじ)を受け入れてきた土地。港町で育った自分の性分に合うと感じる」とあがたさんは話す。それは、今やあがたさんのライフワークとも言えるタンゴ発祥の港町、ボカ(アルゼンチン・ブエノスアイレス)とも通じるものがあるとも考えている。
その昔、川口には吉永小百合主演の映画「キューポラのある街」で描かれたように多くの鋳物(いもの)工場があった。キューポラとは鋳物を溶かす溶銑炉のことだが、今ではその工場跡地に超高層マンションが林立、かつての面影はもうない。しかし、人情など随所に“昭和の残光”が感じられ非常に住みやすい町だという。
そのあがたさんが今年2〜3月にかけて発表予定の2枚のアルバムが「俺の知らない内田裕也は俺の知ってる宇宙の夕焼け」(販売元・ブリッジ)と「誰もがエリカを愛している」。
「還暦を過ぎて、原点の1つであるタンゴをやってみようと思い、昨年アルバム(『エリカ』)を作ってきた」とあがたさん。その前に作りかけていたアルバムが『内田裕也』」だった。
アルバム『内田裕也』は「ポップで軽快、そう快で痛快!」(音楽評論家・小倉エージ氏)な詩とサウンドで、川口をテーマにした曲が2曲(「キューポラ・ノワールの街」「いつか日曜日がきたら」)などが収録されている。
結局、『内田裕也』がA型(あがた)パンク、『エリカ』はA型タンゴと、あがたさんの音楽性を表す2つの作品として完成した。
タイトルにロック歌手・内田裕也とタレント・沢尻エリカの名前を付けるのもユニーク。これについて、「タンゴのアルバムではカレル・チャペックという作家のSF小説をタンゴでやってみたかった。ところが2曲目の途中で、♪沢尻エリカの〜という言葉が出てきた」とあがたさん。「やんちゃな気持ち」から「内田裕也も作ってみようかということになった」と話す。
この2人の名前になったのは、「この人達が希求しているある種のもの、が自分と同質のものにさえ思えてくる」(『内田裕也』に本人が書いたノート断片=原文)から。
あせりがエネルギーに
北海道・留萌(るもい)で生まれたあがたさんは「自分は明治維新以降に入植した人たちの末裔」と話す。父の転勤で小樽、函館、青森と港町を転々としながら育ったことで「自分がどこで育ったのか虚ろに感じている」とも。
小さい頃から、ピアノやバイオリン、ギターなどの楽器に親しんでいたあがたさんは、高校2年の時にボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」を聞いてショックを受ける。そして、「俺の道はこれしかない」と歌手になることを決意したという。
♪タンゴが原点
高校(函館ラ・サール)卒業後、大学(明治大学=中退)に通うために上京、ミュージシャンと交流を持つ中で自然と人前で歌うようになっていった。そして、24歳の時に「赤色エレジー」が大ヒット。しかし、特徴ある歌だったがゆえにその後、壁となっていく。「『赤色エレジー』をどう乗り越えるか」ということが意識の中に付きまとってきた」とあがたさんは言う。壁を意識しながらポップスを歌う中で、「ふと気づいたら自分の生理感覚の原点の1つにタンゴがあった」と気付く。「みんな熱帯の音楽と思うけれど、タンゴは“北国の音楽”。重くて暗い。僕も北海道で生まれたから」とあがたさん。同じく港町で生まれ、育ったという共通性もあってタンゴの持つエキゾチズム(異国情緒)に魅かれたと言う。
♪転がる石のごとく
現在は、俳優として映画「海炭市叙景」などの映画出演やテレビにも活躍の場を広げるあがたさん。だが、あくまで「自分の肩書は歌手」と言い切る。1昨年60歳の時に北海道から沖縄まで全国67カ所をキャンピングカー1台で回った全国縦断ツアーを敢行。その模様は昨年秋、映画「あがた森魚ややデラックス」として全国上映された。
そんなあがたさんは過去ではなく、「現在の自分」を歌に表現することを重視している。しかし、「まだ、“自分”を表現しきれていない」と感じているあがたさんは、常に「あせりと渇望」を抱えており、それが制作意欲を湧き立たせるエネルギーになっているようだ。
「70歳までに自分のスタイルを確立して80歳まで歌い続けたい」とあがたさん。「車いすに乗ったり、つえを突いて歌っているかもしれない。そうなった時に自分の歌がどんな境地にたどり着くのか見てみたい」と言う。常に前へ、と進みながら自分の音楽を追求していくあがたさんの姿は、「ライク・ア・ローリング・ストーン」ではないが、前進し続けているように見える。 |
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