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観光客でにぎわう複合商業施設「亀戸梅屋敷」(江東区)は、「亀戸梅屋敷寄席」の会場でもある。寄席を訪れた櫻庭さんは歌川広重の浮世絵「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」(複製)を背に、「着物は好きで結構、着ます」と話す。夫の三遊亭楽松は「五代目円楽一門会」の真打ちで、師匠は六代目三遊亭圓生からじかに教えを受けた三遊亭鳳楽だ。一門会が開催する「両国寄席」(墨田区・お江戸両国亭)も「絶対おすすめ」と強調する。「今はめったに聞けない噺が聞けるし、放送自粛用語もバンバン(笑)。まさに『穴場』です」 |
著書「落語速記はいかに文学を変えたか」を出版
伝統芸能や江戸町民文化を軸に執筆活動を続ける櫻庭(さくらば)由紀子さん(54)は、“読む落語”にも愛情を注ぐ。それは、明治時代に始まった「落語速記」。話し言葉を主とした高座の口演筆録で、「言文一致体」の近代文学の“生みの親”ともいわれている。櫻庭さんの新著「落語速記はいかに文学を変えたか」は速記本の誕生や「近代落語中興の祖」とされる三遊亭圓朝の事績から説き起こし、双方の境界と交差を考察した一冊だ。噺(はなし)家の夫のサポート役も務めるだけに、「落語愛」を語る口調が熱を帯びる。「聴く・見る、そして読む…。その豊かな世界を味わい尽くしていただきたいです」
「『(落語も、その速記本も)面白いよーっ!』という私の心の叫びです」。50歳過ぎから著述の対象を「好きな分野」に絞った櫻庭さんは、新著に込めた思いとその特色を話す。「堅苦しい論文では全然なくて、エンタメ色を前面に出しています」。西洋由来の速記技術を用いた落語速記の“出版第1号”は、1884(明治17)年発刊の三遊亭圓朝作「怪談牡丹燈籠」だ。「小説神髄」の著者・坪内逍遥の助言を受けた二葉亭四迷は「圓朝の速記」を参考に、言文一致体の近代写実小説「浮雲」を書き上げた。「演芸側の人間」を自任する櫻庭さんは指摘する。「落語と文学の壁は思いのほか低かったのではないでしょうか」
北海道小樽市に生まれた櫻庭さんと落語との出合いは高校1年生のとき。もともと漫画やラジオドラマの情景の“脳内再生”にふける「自称・元祖オタク」とあって、カセットテープの録音で噺を聞いた途端、「『落語ってすげぇ!』と感動した」と振り返る。札幌市の短期大学を卒業後、同市内の事業所に勤め、「東京出張のたびに寄席通い」。その後、長野県内の印刷会社でさまざまな業務に携わる中、「書く仕事の面白さとも出合えました」と笑みを見せる。
「夫の高座、楽しみ」
経営者インタビューなどにやりがいを感じていた半面、フリーになってからも「食べるためにも仕事をえり好みばかりはしていられませんでした」。気分転換を兼ねて落語のブログを立ち上げたところ、「そこから少しずつ仕事の依頼が舞い込むようになった」と回想する。2013年には東京・新橋で開催されていた“居酒屋寄席”の取材で三遊亭楽松と出会い、「割とすぐに(楽松の母親の前で)三つ指をついていました(笑)」。結婚以来、広報を中心に夫の活動全般を支える櫻庭さんは、笑顔を絶やさず言葉を継ぐ。「今はいつだって噺家が隣に居る。(高座の前に)大ネタを練り込むときのすさまじい集中力には、こちらが総毛立つほどで…、たぶん誰よりも私が楽松の高座を楽しみにしています」
20年には初の著書「噺家の女房が語る落語案内帖」(笠間書院)を出版。その後も「江戸でバイトやってみた。古地図で歩く大江戸八百八町萬職業図鑑」(技術評論社)などが反響を呼び、「ようやくテーマを選んで仕事ができるようになった」と口元をほころばせる。「悪い意味でのストレスがなくて、『今』が本当に楽しいです」
「落語速記はいかに文学を変えたか」
櫻庭由紀子著(淡交社・2090円) |
新聞小説にも影響
落語と出合ってから程なくして、古書店で見つけた速記本でも“脳内再生”を始めていた櫻庭さんは目を輝かせる。「速記は普通の文章に直されているので、今の人も十分読めます」。今春発行の新著「落語速記はいかに文学を変えたか」(淡交社)は落語や講談といった話芸の「演芸速記」の歴史を概観した上で人情噺などの速記本を大衆文学の中に位置付け、文学界全体との相互作用を検証している。代表例は明治時代、新聞各社が部数競争の切り札とした新聞連載小説だ。尾崎紅葉の「金色夜叉」、夏目漱石の「三四郎」や「こころ」…。文学史上の名作を挙げ、こう話す。「当時、純文学以上に人気だったのは速記本。文豪も大衆の『共感したい』『笑いたい』『泣きたい』という欲求を、意識の外に置いたとは思えません」
その筆は大正・昭和以降にも及び、各章に名人や巨匠のエピソードをちりばめている。五代目古今亭志ん生や八代目桂文楽、六代目三遊亭圓生…、そして「探偵小説の父」といわれる江戸川乱歩、「半七捕物帳」の岡本綺堂、「銭形平次捕物控」の野村胡堂…。「寝転んで拾い読みをしても楽しんでいただける中身では…」。速記本が“絶滅危惧種”となった現代の状況も踏まえ強調する。「先人が文字に写した高座は、大衆の声の歴史。そこから見える人間の深淵(しんえん)を『皆さんものぞいてみませんか?』と言いたいです」
コロナ禍では高座の存続に危機感を募らせたこともあり、「聴く」と「見る」にも並々ならぬ思いを寄せる。「やはり『リアル』は格別。残していきたいし、求められ続けるはず」。その上で、こう言い添える。「噺に出てくる女性やお年寄りは、ほぼ全員元気いっぱい。私も落語からパワーを頂きながら、まだまだたくさんある『書きたいもの』を形にしていきたいです」 |
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