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房総が生んだ国際俳優・早川雪州を描く 館山市那古の大場俊雄さん |
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膨大な資料を調べて「早川雪洲—房総が生んだ国際俳優」を書き上げた大場さん |
「定年世代がアメリカ映画『戦場にかける橋』を劇場で見た最後の世代ではないでしょうか」と話すのは、このほどハリウッドスター「早川雪洲—房総が生んだ国際俳優」を出版した館山市那古の大場俊雄さん(79)。早川雪洲(本名:早川金太郎)は現在の南房総市千倉町千田に1886(明治19)年6月10日に生まれた。「早川雪洲を描いた本は俳優論、演技論、芸術論を含めて多数ありますが、生年月日や出生地など間違った記述も多々みられます」。自然科学の研究者である大場さんは徹底的に資料を調べ「資料に語らせたほうが良い」と雪洲の生い立ちから死去するまでを描き上げた。
大場さんは55年、東京水産大学増殖学科卒業、教職を経て61年千葉県水産試験場に入り、同千倉分場長を務め、長年アワビの増殖・アワビの種苗の研究を重ねてきた。この地区一帯はアワビの採取が盛んなのだ。
大場さんは地元のアワビ関係者にアワビ増殖に関して聞き取り調査を実施。その中で早川金太郎の話も頻繁に出てきた。「金太郎はアワビとは関係ないのですが、話者に対して失礼と思い、ノートに書き留めてきました」
冊数もだいぶたまり67年ころからぼつぼつと金太郎を調べるようになった。
金太郎の渡米目的にしても学術研究、留学のためといわれているが、「地元で聞いた話の中で断然多かったのは、1907年に千葉県沖で起きた。太平洋北回り航路に就航していた米国大北汽船会社のダコタが座礁。当時としては大きな海難事故で、海城中学校を卒業した金太郎が通訳した時、世話をした美しい白人女性がいて、その後その女性を追いかけていったということでした」。
金太郎の結婚はどうだろう。小原ツル(芸名:青木鶴子)は興行師・川上音二郎の姪。1898(明治32)年音二郎と貞奴に連れられてサンフランシスコに渡った。その後、サンフランシスコに住んでいた画伯の青木年雄氏の養子になった。
早川雪洲—房総が生んだ国際俳優(崙書房出版・1365円) |
44年の歳月、渡米10回
大場さんは「すべて、資料に基づいてまとめたつもりで、戸籍謄本はじめあらゆる資料を探してきました。そのため、あやふやなところは、書きませんでした。どうも芸能界の一部出版物には孫引きが多くて」。一部に雪洲は哲学博士といわれているが、シカゴ大学に問い合わせてもそのような痕跡はないという。
雪洲は気位が高いのか千葉県人会には顔を出さず東京人会に籍を置いた。米国では千田出身の出稼ぎ仲間が訪ねても雪洲は会わなかったという。
大場さんは「調査目的の渡米は定年後の2000年から10回ほど行きました。ただ本をまとめるつもりがなく調べるのが楽しくて時間がたちました。しかし約2年前に出版の話が持ち上がってその気になったものの、もっとは早くまとめることを念頭に考えておけばよかった」と話す。
大場さんは応用自然科学を学んだ水産技術者で映画界、演劇界は門外漢。だが、公文書やできるだけ確かな資料で雪洲、川上音二郎、ツル、貞奴ら正確な人物を調べることが本人の名誉ではないかという。
大場さんは千葉県ゆかりの財界人らこれからも資料をもとに書き上げていきたいと意欲満々だ。 |
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