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茨城県の筆子塚研究の資料を手にする川崎さん |
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手掛かりの「筆子塚」探し35年
明治維新の際、欧米列強の植民地にならず日本の近代化が成功したのは、江戸時代の民衆教育の中心・寺子屋の普及。当時の日本人の識字率が高かったことは知られているが、ではその「読み書きそろばん」を教えた寺子屋の普及はどのようなものだったのだろうか。富津市の喜久男さん(74)は「寺子屋に学んだ子ども(筆子)が師匠の遺徳をしのび建立した墓(筆子塚)を調査すれば、おおよそ寺子屋の実態がつかめる」と研究に没頭、1992(平成4)年には千葉県の「筆子塚研究」を出版、それから15年、今度は「茨城県の筆子塚」を9月に発行する予定だ。
江戸幕府や諸藩による寺子屋調査の実態がないため、どれぐらい普及していたかは不明。寺子屋は貨幣経済の始まり(領収書の必要性)と、兵農分離(手紙による統治)が文字学習を促進し、誕生したといわれる。寺+小屋ではなく、寺子+屋なので、師匠は当初大半が僧侶であった。普及につれて武士、医者など知識を持った人も現れた。
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富津市新井の了専寺にある筆子塚(下の部分に筆子中とある) |
川崎さんは「歴史を担った人たちが多く埋葬されている墓地は、過去もいっぱい詰まっています。墓地に行くといっても近代的な霊園にいっても意味がない。江戸時代が見えてくる寺院墓地や共同墓地に出掛けました」と墓地回りを始めた。
川崎さんが筆子塚と出合ったのは72年。「運命の出合いでした。世界史を高校で教えていましたが、筆子塚の存在を知ってからは千葉県全域の墓地を調査。現在3350基すなわちそれだけの師匠がいたわけです」
しかし師匠によっては建立されないケースやすでに崩れたものなどからその10倍くらいいたのではと考えられると川崎さんは言う。
「バイクに乗って各地の墓地を回りました。その近くの高校にバイクを置かせてもらい、体ひとつで出掛けて、ある地区を集中的に調査する方法です。ただ墓石をのぞき込む作業でした」と執念のみという。
千葉に続き茨城の研究書もー9月発行ー
茨城県の調査については川崎さんが92年に60歳で木更津高校を定年退職後に思い立った。「総面積はひと回り大きい茨城県ですが、千葉県の隣接県でもあり絶対不可能なことではありません。定年退職後の相当にやりがいのあるライフワークになるだろう」と考えて取り組んできた。
「団塊世代の定年で古里に戻った人はその地方の筆子塚を探して下さい。きっと新しい発見がありますよ」と川崎さん。「わたしは編集作業に忙しい毎日です。当初3月に発行する予定でしたが遅れに遅れて9月になりました」と筆子塚研究にささげる毎日。日本史研究に新たな視点を切り開いた研究者として、東京大学出版会刊行の「歴史を読む」の執筆者にも選ばれた。
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