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地蔵坂でも坂下側のこの辺りは「藁店」と呼ばれる |
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「きょうかあすかの会」=「もん」3階。筆者も会員 |
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「天文屋敷」の跡地。日本出版クラブ会館とイチョウの木 |
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「待望の新大関はエストニア日本人よさあ頑バルト」。灯ともるころ、神楽坂から枝分かれした地蔵坂の入り口に近い居酒屋に笑い声が響く。「それいいねぇ〜」と威勢の良い声は世話役の落語家、柳家一九さん(53)。昨年、法政大人間環境学部教授、安藤俊次さん(61)と狂歌愛好会「きょうかあすかの会」を立ち上げた。
狂歌は短歌と同じ形式であるが、「取材・着想・用語に制限なく、しゃれ・こっけいを主としたもの」(広辞林)。「きょうかあすかの会」会長の安藤さんは「江戸時代に狂歌で一世を風靡(ふうび)した太田南畝はこの地蔵坂の坂上に居を構えていました。また江戸後期には写し絵の都楽、都々逸坊扇歌がこの地の寄席に進出するなど、寄席文化が花開いた場所なんです」と話す。
「藁坂」の別名
地蔵坂のいわれは坂上にある光照寺(こうしょうじ)に「子安地蔵」が安置されていたことによるが、坂の上り口から右に曲がる辺りまでの土地は「藁店(わらだな)」と呼ばれたため、「藁坂(わらざか)」の別名も持っている。この坂の途中に藁を商う店があったからとのこと。
江戸時代、神楽河岸まで船で運ばれた物資は荷揚げされた後、荷馬車で各方面に運ばれて行った。蹄鉄(ていてつ)のなかった時代には馬のひづめの磨耗を防ぐために、藁で保護をしていたので、坂の途中に藁を扱う店があったようだ。
南畝はこの坂で子どもたちの前で転んでしまい、「子どもらよ笑わば笑へ藁店のここはどうしよう光照寺」と詠んでいる。
坂を上りきった所が光照寺で、1645(正保2)年に浅草から移転してきた。以前は戦国時代にこの一帯の領主であった牛込氏の居城跡。築城に適した牛込台地の突端で、標高は27メートルある。当時は江戸湾の船の出入りが見える牛込台でも、一段と高い位置にあった。
そのため光照寺の向かい側には幕府の「天文屋敷」(新暦調御用所)が置かれ、新しく暦を作るための天体観測が行われた。しかし、目の前にある光照寺の境内の樹木が大きくなり、観測に支障を来すとして、1782(天明2)年に浅草に程近い鳥越神社近くに移転している。現在、その跡地である日本出版クラブ会館の前には、樹齢250年のイチョウの木が枝を広げている。このイチョウは戦時中、焼け野原に残っていたので、被災した人々がこの木を目印にして集まって来たとのことだ。
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元寺子屋だった民家の廃材を移築したという「もん」の前に立つ平松琢磨さん |
漱石が通った寄席
明治に入って神楽坂が「山の手銀座」としてにぎわったころ、藁店には「和良店(わらだな)亭」という寄席があった。夏目漱石も「落語か。落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店に聞きにでかけたもんだ」と、「僕の昔」と題した談話の中で述べている。
また漱石はこの坂を「それから」の舞台としても登場させている。
主人公、代助の借家を坂上の辺りとし、訪ねて来る三千代に「所が天気模様が悪くなって藁店を上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。(中略)…息がくるしくなって困った」と述べさせている。
地蔵坂を下り切ると目の前に文房具店「相馬屋」がある。南畝も常連客であったというこの店は、明治になると日本で初めて西洋紙の原稿用紙を発売した。尾崎紅葉、北原白秋、坪内逍遥、森鴎外、石川啄木など、明治の文豪とうたわれた作家たちに愛用され、相馬屋の原稿用紙で書くことが一流作家の証しとなったという。今もそうした作家の直筆原稿が店のショーケースに収められている。坂に誘われるようにして“街の奥”へと歩めば今なお、時を刻んできたモチーフが点在している。
「きょうかあすかの会」の会場になっている居酒屋「もん」店主の平松琢磨さん(40)は、「花街としての文化や伝統芸能の発信の場となれば—と店の3階を貸しスペースにしています。現代の“寺子屋”になればとの思いです」と語る。 (坂の会 井手のり子) |
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「きょうかあすかの会」
活動の内容、入会の問い合わせなどは、はがきで受け付けている。
送り先は、〒住所、氏名、TELを明記の上、〒192—0911 八王子市打越1523の51「きょうかあすかの会」安藤俊次。 |
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