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病院坂。歩道は整備されているが、車の往来は多く、西に“わき水”があることを知らずに行き交う人もいる |
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わき水の流れる水道(みずみち)を見る明正小の子どもたち。木の橋は、大学生のボランティアが作った=(財)世田谷トラストまちづくり提供 |
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小田急線成城学園前駅から歩いて10分足らず―。病院坂(世田谷区)の西隣に“都市の里山”がある。高級住宅街にも程近い成城三丁目緑地。斜面からのわき水にサワガニがすみ、タカの仲間・ノスリが上空を舞う。環境保全の主役は、「定年世代」を含む住民団体。子どもたちも活動に加わり、広さ2ヘクタールの緑地を“教室”に、自然を愛する心をはぐくんでいる。
成城学園前駅の少し南。病院坂は住宅街から世田谷通りとの交差点へと、約20メートルにわたってやや急な下りこう配を描く。近くに病院があったことが坂名の由来といわれるが、“住民の記憶”は一致しない。「結核の療養所では…」、「野戦病院があったらしい」、「病院自体がなかったのでは…」。辺りが戦前、皇室の御料林で、「苗園(びょうえん)」もあったため、「本来は苗園坂では…」と首をかしげる人もいる。推理小説家・横溝正史が近所に住んでいたことから、著書「病院坂の首縊(くく)りの家」の舞台ともいわれるが、住民の多くは「小説の雰囲気とは全く違う。同じなのは名前だけ」と苦笑する。
住民が保全活動
一帯は、“緑のベルト地帯”とも呼ばれる国分寺崖線(がいせん)の急斜面。成城三丁目緑地の高低差は病院坂と同様、約20メートルに及ぶ。ヒノキ、サワラの常緑樹やコナラ、クヌギの落葉広葉樹が混在する雑木林。2カ所のわき水は、冬もかれることがない。住民の有志で作る成城三丁目緑地里山づくりコア会議は2000(平成12)年の設立。会長の栗林勝彦さん(69)は「わたしが子どものころは、もっと緑が広がっていました」と話す。高度成長期やバブル期の宅地開発のため、崖線の緑はだいぶ失われたが、戦後、営林署敷地となった成城三丁目緑地は開発を免れ、10年余り前から世田谷区の所有になっている。
コア会議は世田谷区や㈶世田谷トラストまちづくりと連携し、植生調査を進めているほか、下草刈りや落葉かき、植樹などの“里山保全”に取り組んでいる。コア会議発足前は、緑地に住民が立ち入ることはなく、「荒れ放題に近い時期もあった」と栗林さん。現在はコア会議などの手で小道も整備されている。
地元の明正小も「総合的な学習の時間」に、緑地での学習を組み入れている。草花遊びや竹細工、ドングリからのコナラ植栽、たい肥を利用したカブトムシ飼育…。校長の野口潔人さん(52)は、地元の出身で、「自分が子どものころを思い出します」と笑顔を見せる。全校児童850人を超すだけに「時間の調整は大変」というが、「子どもたちはコア会議の方々との触れ合いを、いつも心待ちにしている」と話す。
成城三丁目緑地の西側に延びる「お茶屋坂」。住宅の木々の緑も坂に影を落とす |
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成城三丁目緑地内に植えているコナラの苗木。「子どもたちがドングリから育てた」と栗林勝彦さん |
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コア会議の会員は現在約20人。50代以上の〝定年組〟が多く、それぞれの得意分野を生かしている。学生の時、生物部だった木村正三さん(75)は、昆虫や野鳥観察の先生役。工作が上手な蜂谷寛さん(73)は、「竹細工のおじちゃん、と声を掛けられる」と笑う。2人とも以前は都心部に通っていた会社員。「わたしたちも勤めていたころより世田谷の自然に詳しくなった」と快活だ。
お茶屋坂も
国分寺崖線の急斜面には多くの坂があり、古くから“崖上と崖下”の往来を結んできた。成城三丁目緑地の西側は「お茶屋坂」。四輪車の乗り入れはなく、木々の枝が風に揺れる音が聞こえてくる。江戸時代初め、この地を治めた旗本が坂上に茶室を建てたのが坂名の由来。栗林さんは「崖線のわき水で飲むお茶はおいしかったでしょう」とほほ笑む。坂上の道を歩くと、今も視界が開ける。秋から冬へと装いを変える緑地越しに雪を被った丹沢の山々と富士山…。都心部とは趣が違う開放感のある風景が広がる。
コア会議は、活動への参加を呼び掛けている。問い合わせは(財)世田谷トラストまちづくり:TEL03-6407-3311 |
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