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「姫下坂」はお姫さまと恋人の話に坂名を由来する。南青山のこの坂が古い地図や文献と符号するようだ |
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坂道を訪ね、その名前のいわれや背景を知るのは、とても興味深い。港区南青山の「姫下坂」(ひめおりさか)。この坂名は、これまで根津美術館(南青山)の脇の「北坂」の別称といわれてきたが、今回、調べてみると、独自の坂と見てほぼ間違いないと分かった。「姫下坂」とその周辺を、古(いにしえ)の残り香を求めて歩いた。
お姫さまが恋人に会いに行く時、駕籠(かご)を降りたという「姫下坂」。名前のいわれは「古郷帰江戸咄一」(1687年)にある。
「鎌倉から室町時代にかけてのころ、黄金長者のお姫さまと白金長者の息子・銀王丸が笄(こうがい)橋で逢引(あいびき)をした」という話の中で、「お姫さまはこの坂の辺りは、沢で石がごろごろして危ないため、ここで駕籠を降りた」とされている。
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「姫下坂」の坂下付近に立つ安藤桂一さん(右)と兼二さん |
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「白金長者」の館があったとされる地には、白金台の地名が残る。目黒駅に近い国立科学博物館附属自然教育園には、館跡と思われる土塁もある。一方、「黄金長者」の居住地跡は、青山霊園西側の高台と思われる。今も尾根を走る通りは「長者丸通り」という。また、この高台の東側のふもとに沿って笄川(話では龍川)が流れていた。現在、笄川は暗渠(きょ)となり、笄橋もなくなったが、橋に続いていた「笄坂」は現存する。
この話のおおよその舞台はこのように特定できるが、では「姫下坂」と符合する場所はどこか…。古い地図、文献で調べてみたところ、一致すると思われる坂があった。長者丸通りに続く坂で、江戸時代の地図に載っている。根津美術館脇の「北坂」から見て北東の方角だ。
「そんなロマンチックな名前を持つ坂とは知らなかった」と驚くのは、生まれた時から坂下に住む安藤商店店主の安藤桂一さん(69)。この辺りは以前、小川が流れ、水源があちこちにあり、家の新築時に掘り起こした際には、貝殻が出てきたという。
「子どものころ、坂にはザクロの木が覆いかぶさってうっそうとしていた。城壁を思わせる反りのある高い石垣の上には洋館があって、人を寄せ付けない空間だったね。夜は親父(おやじ)から『タヌキが出るからろうそくを持って行け』なんて言われたよ」と、いとこの兼二さん(80)とともに少年時代に思いをはせる。
韮沢敏久さん |
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かつては入り江
坂上は大名屋敷の名残がある閑静な住宅地。しかし長者丸通りを北へと少し歩くと、庶民的な雰囲気になる。車がすれ違えないほどの狭い商店街。道路脇の「船光稲荷神社」の赤い鳥居が目を引く。南青山の高台に「船光」とは不思議な印象。由来には、この地はかつて広大な入り江で、「長者丸」という千石船の船着き場であったと記されている。この辺りが海だったとは信じがたいが、それを裏付けるのは戦前から店を構える、にらさわ豆腐店店主の韮沢敏久さん(71)の話。「今でも水をくみ上げると地下50メートルほどの所からヨシの根が出てくる」と言う。
三代目となる韮沢さんは「昔は住宅がびっしりあって、通りの両側には間口の狭い商店が軒を並べ、いわゆる下町のにぎわいでしたよ。でも空襲ですっかり焼け野原となってしまった」と。終戦後、先代はいち早く新潟から木材とともに、大工20〜30人を引き連れて、一日でにらさわ豆腐店を再建したという逸話がある。焦土に建った雇い人の住居も含めた大きな建物は目を見張るものだったそうだ。牛乳販売も手掛け、渋谷、新宿、新橋にまで手広く配達をするなど、50人の雇い人を抱えた店は、「日本一の豆腐店」との呼び声が高かったとのこと。しかし、昔からこの地に住む人は数えるほどになってしまい、現在の街の変わりように驚くという。
長者丸通りを北に進めば青山通りに出る。青山通り沿いには日本のポップス音楽をリードする会社や瀟洒(しょうしゃ)なブライダル関連の施設が建ち並び、夢を誘う街が広がる。古のロマン漂う坂は、この街の奥に眠っている。
(坂の会 井手のり子) |
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