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桜の坂に“暗号”の碑 「粋人」大田南畝の作 禿坂/品川区 |
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禿坂のソメイヨシノは毎年春、“桜のトンネル”を形作る=宮川富士男さん提供 |
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500メートル近い桜のトンネル─。春、品川区の禿(かむろ)坂は、華やぎを見せる。一方、坂に面した行元寺には、暗号文のような「隠語碑」が、ひっそりと立つ。《…二人不戴九人誰…》。
碑文は「蜀山人」の号で知られる江戸時代の文人、大田南畝による「敵討ちの記録」。今は地元でもあまり知られることがなく、「江戸の話題をさらった事件」の記憶を秘める。
3月下旬〜4月上旬、禿坂の桜は見ごろを迎える。長さ480メートル、幅15メートルの坂を覆う“花の回廊”。すべてソメイヨシノで128本に上る。坂下からすぐの目黒川も桜の名所。「かむろ」にはカッパの“おかっぱ頭”の意味もあるが、品川区教委の標柱は、遊女に仕え「かむろ」と呼ばれた少女の悲話伝承を坂名の由来とする。
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後藤一雄さん |
坂下に近い不動前駅通り商店街で洋品店を営む後藤一雄さん(60)は、古地図を調べ「江戸時代からの道と分かる」と話す。かつて辺りは農地だったが、今は坂沿いのマンションやオフィスビルが、歩道の桜の木と並行する。行元寺の入り口は坂の中ほどに面するが、民家への通路のようにも見え、寺があることに気付かない人も少なくない。
▼舞台は神楽坂
小ぢんまりした印象の行元寺だが、もともと神楽坂(新宿区)にあり、江戸時代には広い寺域を有していた。住職で書家の印南渓峻さん(59)は「敵討ちの舞台は神楽坂。当時の行元寺境内でした」と説明する。寺が「区画整理の関係」(印南さん)で禿坂に移転したのは明治時代後期。
やはり神楽坂から移された隠語碑の背面には、漢詩のような碑文が刻まれている。
『癸卯天明陽月八
二人不戴九人誰
同有下田十一口
湛乎無水納無絲』
隠語碑を見る印南渓崚さん。 |
隠語碑の背面の拓本。
「南畝」の字も見える=拓本は行元寺提供 |
「読み方は今、全く分からない」とした史跡案内書もあるが、都内の会社を定年退職後、「江戸・東京 坂道物語」(文芸社)を著した朝倉毅彦さん(73)=埼玉県=は「南畝自身が碑文のなぞ解きをしている」と指摘する。
問題の敵討ちは1783(天明3)年。農民の冨吉が父の仇(かたき)、甚内を討った「天明の復讐」だ。
冨吉は下総国から江戸に出て、16年ぶりに宿願を果たした“あっぱれな孝子”。当時の「かわら版」などで事件を知った江戸っ子が境内に押し寄せ、冨吉が剣の修行をした道場には入門希望者が殺到したと伝えられる。
▼“言葉あそび”
南畝は随筆「一話一言」で、「寺主からこわれるままに…」と創作の理由を記す。碑文は文字の組み合わせによる“言葉遊び”。例えば2行目の「九人」は、「九」に「人」を合わせ「仇」とする。
“読み方”は【上表】に記すが、大まかに“現代語訳”すると「天明3年10月8日 不倶戴天(ふぐたいてん)の仇は誰? 冨吉と甚内」。江戸を代表する風流人で狂歌の名人といわれた南畝の作だけに、朝倉さんは「隠語碑の存在と意味が分かった時は胸が躍りました」と振り返る。
なお敵討ち後、ほどなく立てられた碑に、隠語が刻まれたのは甚内の三十三回忌に当たる1815(文化12)年。
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朝倉毅彦さん |
南畝は「寺主は、人にとやかく言われることを恐れたが、年を経たので(隠語を)刻んだようだ」という意味の文を「一話一言」に残している。
印南さんは「敵討ちの場所が神楽坂だけに、禿坂では語り継がれる機会が少なかった」と話す。この地に生まれ育った後藤さんは、品川区の広報紙に禿坂のエッセーを書いたこともあるが、「隠語碑の話は知らなかった」と驚く。
行元寺移転時の住職は印南さんの祖父で、書家として文化功労者になった豊道春海。
「家族から隠語碑の価値を聞いていた」と語る印南さんは「保存を第一にしながらも、隠語碑が秘める歴史の妙味も伝えたい」と笑顔を見せた。
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