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津の守坂通りの方向から“すり鉢の底”に至る急傾斜の階段の坂。「モンマルトルの坂」と呼ぶ住民も |
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石畳が残る“すり鉢の階段坂”に立つ鈴木さん(左)と清水さん。鈴木さんの命名は、坂沿いの料亭の名にちなみ「千葉坂」 |
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「策(むち)の池」のほとりには、津之守弁財天が祭られている |
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「石畳の街」目指す
がけや急斜面に囲まれた、すり鉢状の地形─。四谷・荒木町(新宿区)には“すり鉢の底”に至る5つの「階段坂」がある。そこは江戸時代、大きな池で、坂はいずれも明治以降の整備。
かつて花街として栄えた荒木町は、飲食街の路地や坂に往時の面影を残す。「荒木町を石畳の街に」。活動に乗り出した“定年世代”は「すり鉢の坂にも石畳を増やしたい」と構想を描く。
荒木町のほぼ全域は江戸時代、美濃高須藩(高須松平家)の上屋敷。幕末の会津藩主・松平容保は、この地から会津松平家に養子入りした。広さ10万平方メートル余りの上屋敷には、自然の地形を模した大名庭園。
庭園の池は明治以降、水かさが減り、わき水がほぼ絶えた今は「策(むち)の池」と呼ばれる滝つぼの跡に、わずかにその名残をとどめている。
▼江戸時代は池の底
策の池の近くに立つと、がけや急斜面に建つビルが四方の視界を遮る。ここが江戸時代、「池の底だった」と実感できる空間だ。
6つある坂のうち5つは傾斜が急なため、階段状の坂。車が通行できる唯一の坂は「Sの字」を描く。
新宿区の歴史に詳しい北見恭一さん(44)=同区文化観光国際課=は「実に珍しい地形。池の縮小に伴い街ができ、坂も造られたようです」と語る。
池のほとりは明治半ばには景勝地となり、料亭が軒を連ねた。明治末・大正期には歌舞伎の劇場や寄席も建ち、芸者は250人を数えたという。
「温泉もあったみたいです」と話すのは、3種類のかつ丼が人気の「とんかつ鈴新」(TEL03・3341・0768)を営む鈴木洋一さん(62)。
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そこかしこに石畳が残る荒木町の飲食店街。路地巡りを楽しむ人たちも足を運ぶ |
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1960(昭和35)年ごろの荒木町・車力門通り。当時は「宇の丸横丁」と呼ばれ、芸者の行き交う姿がよく見られた=鈴木洋一さん提供 |
明治時代の新聞に「温泉鞭(むち)の湯」の記述がある。現在、荒木町に残る石畳は、路地と坂の一部を合わせた約120メートル。昭和30年代、料亭の主人たちが整備したものだ。
1983(昭和58)年、荒木町は花街の歴史を閉じたが、フジテレビの本社が近くにあったこともあり、飲食街として夜のにぎわいを保った。しかし、フジテレビ本社が97年に移転。
ほかの企業の撤退やバブル崩壊と相まって「客足に大きく響いた」と鈴木さんは振り返る。
▼石だたみの会始動
「9回裏2アウト。今が(活性化の)ラストチャンス」。鈴木さんの幼なじみの清水浩行さん(62)=造園業=は元プロ野球投手(大毎オリオンズ・当時)らしく、飲食街を取り巻く現状を野球に例える。
清水さん、鈴木さんが中心となって「荒木町・石だたみの会」を立ち上げたのは07年5月。テレビ番組の取材で「とんかつ鈴新」を幾度か訪れていたタレントの石塚英彦が名誉会長役を快く引き受けた。
絵画が趣味の鈴木さんが“石ちゃん(石塚)”の似顔絵を描き、自ら募金を呼び掛けるチラシやポスターをデザインした。
「遊び心を忘れず、息の長い運動にしたい」。当初の目標は150メートルの石畳整備。金融危機以降の不況が運動にも影響しているが、「こうした時こそ、街全体の将来を考えた取り組みが大切」と清水さん、鈴木さんは前向きな姿勢を崩さない。
“すり鉢の坂”に、いずれも決まった名はないが、鈴木さんは通称も考慮し、独自に名を付けた。「5つの階段坂物語として、荒木町の新名所にしていきたい」
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