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現在の「やりくり坂」 |
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交通の結節点としてにぎわい、また閑静な住宅地としてのたたずまいを見せる代々木上原。この街には2つのランドマークがある。1つは日本で2番目に大きいイスラム教寺院「東京ジャーミイ」、もう1つが昭和歌謡界に君臨した古賀政男(1904〜78)の邸宅跡地に建つ「古賀政男音楽博物館」だ。この博物館の裏手にある急峻(しゅん)な坂が「やりくり坂」。今ではその名を知らない人が多いが、実は街に住む人々の「協力」「助けあい」の精神を物語るモニュメントだった。
昔の代々木上原は沼沢地の周りを原生林の丘が囲む未開の地。「江戸時代から開拓が始まり、明治期には渋谷茶の産地として茶畑が広がっていた」と話すのは、この地に入植した開拓民の子孫・鈴木錠三郎さん(91)。
現在の住宅地としての姿は関東大震災で焼け出された人々が土地の安さに引かれ移住したことに始まる。28(昭和3)年ごろには現在の古賀政男音楽博物館から坂を少し上った上原仲通り商店街の原型ができたが、住宅地と商店街の間には沼沢地と急峻な丘やがけがあり、大変不便な場所だった。
杯を傾け命名
これを打破するため住民たちは団結。自らの手で丘を切り開き、35年には住宅地と商店街をつなぐ1本の坂道が完成した。落成時には杯を傾け坂の命名談義で盛り上がり、「皆で協力して苦労し、やりくりしたのだから『やりくり坂』が良い」との意見にまとまったという。
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鈴木錠三郎さん |
「やりくり坂」完成後、沼沢地も埋め立てられ街は徐々に発展。引き寄せられた人々のなかには若き古賀政男の姿もあった。九州から上京し作曲活動の第一歩を踏み出したのがこの代々木上原だ。また日本人だけではなく、ロシア革命後、亡命を余儀なくされたトルコ系イスラム教徒の人々も住み着いた。彼らが協力して建てたのが東京回教学院。現在の東京ジャーミイである。
「この街にユセフ・トルコというプロレスの名物レフェリーがいてね。彼が苦しかった時代、何から何まで面倒を見ていたのがうちの父親だった」と当時を回顧するのは、上原社会教育館館長の大木成介さん(79)。往時から住民同士助けあって温かな交流が持たれていたようだ。
トルコとの懸け橋
東京ジャーミイは東京回教学院が老朽化、閉鎖した後、その跡地にトルコ政府の肝いりで00年に開堂。同寺院を切り盛りするエンサリ・エントルコさん(34)は第2代イマーム(礼拝のリーダー)。「東京ジャーミイは祈りの場だが、またトルコ文化センターとしての顔も持つ。トルコと日本の懸け橋となるよう施設はいつも開放し、住民の皆さんのお越しを歓迎します」と語る。今ではテレビで有名になり街の名所に。
大木成介さん |
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古賀の音楽博物館
もう1つのランドマーク・古賀政男音楽博物館(TEL:03-3460-9051)は、3000坪あった古賀の大邸宅跡地に建つ。同じ敷地内には古賀も創設にかかわった日本音楽著作権協会(JASRAC/ジャスラック)がテナントとして入る。都内を転々とした古賀だが、思い出の地として52年に引っ越し、ついのすみかとなった。当初は「先生は街にお金を落とさない」と住民との間に溝があったという。しかし庶民の喜び・悲しみをつづった古賀メロディーの作者だ。思うところがあったのだろう。晩年には周辺を散歩し、気さくにあいさつする古賀の姿があった。
「以前ほどの活気はなくなった」ともいわれる同地域だが、地元の底力はまだまだ健在だ。例えば現在ジャスラックの社屋には社員食堂がないという。その理由の1つが地域に根付くため。お昼になると約300人の社員が街の飲食店に散っていく。住民が街の発展へ一体となって協力し助けあう―。その伝統はいまだにこの街に残っている。
右の松林が現在の古賀政男音楽博物館、手前の“獣道”が現在のやりくり坂になった(1933年、鈴木錠三郎さん撮影) |
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代々木上原駅の近くにある古賀政男音楽博物館。背後にあるのは日本音楽著作権協会(ジャスラック) |
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オスマン・トルコ様式の優雅な大ドームが特徴の東京ジャーミイ |
古賀政男音楽博物館
TEL:03-3460-9051 |
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