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袖摺坂の標柱が立つ石段の坂。左側の石垣は江戸時代の地図には記されていない。住民の1人は「関東大震災(1923年)の時、石垣はすでにあり、壊れなかった」 |
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和の街・神楽坂に近い袖摺坂(そですりざか)。すれ違う際「狭くて袖がすれ合う」という坂の名が、江戸時代の地誌書に記されている。しかし古くからの住民にとって袖摺坂は「以前は聞いたことのない名前」。自ら調査を重ねた住民は「袖摺坂はこの坂にあらず!」と声を上げる。さて、その真相は─。「まちの記憶」をとどめ、伝える人たちの思いを聞いた。
両手を広げると両脇に手が届く石段の坂。坂上と坂下に「袖摺坂」の標柱が立つ。坂名のゆかしい響きからか、最近テレビや雑誌でたびたび取り上げられ、神楽坂の街歩きを楽しむ人も足を運ぶ。新宿区がここに標柱を設置したのは1982(昭和57)年。しかしそれ以前の2年間は坂下の大久保通りを挟んだS字状の坂に、袖摺坂の標柱があった。極めて珍しい“坂の引っ越し”。移設理由ははっきりしないが、新宿区は現在、江戸幕府が文政年間(1818〜30)に編さんした地誌書「御府内備考」などを基に、袖摺坂の場所を推定している。
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江戸時代の地図を指す鳥居さん。祖父と父親は尾崎紅葉の「大家」。余話ながら鳥居家の系図は徳川家康の中臣、鳥居元忠につながる |
広かった袖摺坂?
袖摺坂の坂上近くには明治時代の小説家、尾崎紅葉の旧宅跡がある。坂をめぐり異論を唱える鳥居秀敏さん(84)は紅葉の“大家さん”の家柄だ。「(紅葉の)書き損じの紙が、2階からひらひら舞ったそうです」と柔和な笑みを見せるが、話が坂に及ぶと「誤った情報が定説になるのは見過ごせない」と語気を強める。最も重視するのは坂の幅。銀行勤務時から地図を研究してきただけに、江戸、明治時代の地図から、標柱の立つ坂は幅5メートルはあったと推定する。「袖摺坂が広いのは不自然。『御府内備考』の記述《両脇共狭く往来人、通違之節袖摺合》とも矛盾しています」
幻の「蛇段々」 異論を「まちの記憶」に
それでは“本当の袖摺坂”はどこか─。かつて袖摺坂の標柱があったS字状の坂のすぐ東側に「蛇段々」という階段状の坂があった。戦前そこを通学路にしていた鳥居さんは「道幅や地形から『袖摺坂=蛇段々』とみて、まず間違いない」と話す。近所の鈴木一雄さん(67)“内装業”も「(蛇段々は)確かに狭い階段坂だった。昭和30年ごろなくなったけれど…」。現在、蛇段々のあった地は製本工場やビルが建つ。
寺田弘さん |
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鳥居さんは蛇段々が“幻の坂”になったため「わたしの説を100%証明することは難しい」と苦笑しながらも、自ら作った蛇段々の復元模型を見せてくれた。ことし春の公開講座「神楽坂よもやま話」で自説を訴えた鳥居さん。講座を主催したNPO法人粋なまちづくり倶楽部は、ことし10月に発行する小冊子「まちの想い出をたどって 第2集」に鳥居さんの話を掲載する。
鳥居さんから再検討を求められている新宿区の見解も聞いた。同区文化財研究員の松下祐三さん(32)は幾つもの資料を示し「総合的にみて(袖摺坂を)やはり今の場所と判断しています」と説明する。ただ、坂の幅については「鳥居さんのご指摘の通り。住む方の意見を重くとらえ、さらに調査に努めたい」。
「まちの想い出をたどって」の編集スタッフは神楽坂にゆかりの深い20代〜70代の有志7人だ。同倶楽部理事長で編集責任者も務める寺田弘さん(69)は「どちらかの主張に軍配を上げる意図はない」と話す。ただ、神楽坂に住んだ10数年前とは「街並みが変わった」と寺田さん。「人間味と文化のない街にしないためにも『まちの記憶』を残していく」。現在、居を構える茨城県つくば市から編集のために足を延ばす。
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「まちの想い出をたどって」の編集会議で意見を交わすスタッフ |
「まちの想い出をたどって 第2集」
神楽坂の書店や主な商店などで販売する予定。
問い合わせ:TEL090-5313-8044(寺田) |
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