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麻布の台地を東西に延びる仙台坂。
店舗や木造住宅に替わって高級マンションなどが増えた。 |
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きずな強めた少年とハリス
麻布の台地を西へ上る仙台坂。アメリカの初代駐日公使、タウンゼント・ハリスは坂下に近い麻布山善福寺を「公使館」として使用した。幕末の激動期だけに、地域との交流は極めて限られていたが、ハリスのひげをそったという理容店は今も同じ地で営業する。ことしは日米修好通商条約から150年。開国直後の “記憶”を求め、坂と周辺を歩いた。
「チイサイトコヤサン」。ハリスは自分のひげをそるため善福寺に通った少年を、ことのほかかわいがったという−。理容店「I.B.KAN」(TEL03 -3451-2877)は、もともと「蔦屋」の屋号を持つ老舗で、1818(文政元)年創業と伝えられる。日米修好通商条約の締結は、ちょうど150年前の1858(安政5)年6月。ハリスは翌年、下田(静岡)から善福寺に居を移した。
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「I.B.KAN」でカミソリを手にする西原道雄さん。「4代目はピストルまでもらったらしいです」 |
ハリスと4代目
現在の店主、西原道雄さん(58)は7代目。西原さんの父親、二郎さん(故人)の著書「かみひとすじ」(1982年発行)に、「西洋理髪事始め麻布版」と題した一章がある。それによると「チイサイトコヤサン」は二郎さんの祖父に当たる4代目・蔦屋吉五郎。初めは3代目が善福寺に呼ばれたが「毛唐の面なんか飽き飽きした」と当時13歳の息子を代わりに行かせたらしい。
ハリスは4代目吉五郎に毎日お菓子などをあげた上、洋式の散髪を見せるため、馬車で横浜に連れて行ったとも書かれている。「おそらく曽祖父(4代目)が東京最初の西洋式理容師」と西原さん。“ハリスゆかり”といった宣伝はしていないが、「どこで知ったのか、時折遠方からもお客さんがいらっしゃいます」と話す。
買い物客と話す宮田乙次郎さん(左)。「まるみや」は、“昭和のお店”の雰囲気を残す |
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変わる商店街
江戸時代、仙台藩の下屋敷があった仙台坂の周辺は戦後、商店街としてにぎわった。最高級メロンを取り扱う果物店「まるみや」代表の宮田乙次郎さん (64)=仙台坂商店睦会会長=は「金物屋、時計屋、八百屋、暮らしにかかわるほとんどの店があった」と言う。バブル期の地価高騰などで古くからの店の多くが閉店し、おしゃれなビルや高級マンションに装いを変えた。坂を行き来する外国人の姿も目立つが「常連さん、とはなかなかいかないね」と商店のレジに立つ女性は苦笑する。
しかし2000年の地下鉄麻布十番駅開業後は「外から来る人が増え、活気が少し戻った」と「I.B.KAN」隣で、そば店「長寿庵」(TEL03- 3451-7462)を営む根石憲一さん(61)は、西原さんと言葉を交わす。善福寺境内にはハリスの記念碑などがあり、史跡巡りや街歩きを楽しむ人が、江戸風のだし汁に合うそばを食べに訪れる。
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根石憲一さん |
ハリスがそばを食べたかどうかは分からないが、西原さんは「4代目とハリスの話は、家族からよく聞かされました」と語る。港区立港郷土資料館学芸員の吉崎雅規さん(33)は、ハリスの通訳兼書記官、ヒュースケンが暗殺された後、ハリスが日本を“かばった”例を挙げ「チイサイトコヤサンは十分あり得る話。幕府の文書などには載らない興味深い内容です」と関心を寄せる。
しかし江戸時代の帳面や髪結い道具など、幕末期に芽生えた“小さい日米交流”を裏付ける資料は、米軍の空襲で灰になった。ハリスのひげをそったというカミソリも戦時下の金属供出の対象になった。「今となっては本当に惜しい」と西原さん。それでも老舗の誇りと技術は「自分と若い店員が引き継ぎ育てています」と笑顔を見せた。
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麻布山善福寺境内にあるハリスの記念碑 |
◎理容店「I.B.KAN」
TEL:03-3451-2877 |
◎長寿庵
TEL:03-3451-7462 |
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