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サイカチの実は30センチ近くもありブーメランのよう。サヤの中にはサポニンが含まれ、シャボンのせっけんの役割を果たす。去痰(たん)剤にもなるという。幹に鋭いトゲがあるのは珍しい |
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水道橋からお堀に沿って続く千代田区・皀角 (さいかち) 坂。坂を上り始めると、頭上の高架を走っていた電車がだんだんと傍らに姿を現し、やがて吸い込まれるようにお堀の中へと消えて行く。坂を上り詰めて振り返れば遠景に東京ドームホテルがそびえ、スケールの大きな空間が広がる。眼下をJR総武線、中央線の車両が行き来する。江戸時代、この辺りは浮世絵にも描かれたほどの景勝の地だった。往時をしのびながら皀角坂周辺を散策した。
江戸時代浮世絵に描かれた景勝地
坂の上には坂名のとおりサイカチの木が三本枝を広げている。この木がサイカチと分かるのは、坂の途中に親切な案内板があるからだ。ビルを新築した際にオーナーが植え込みに句碑とともに設置したという。その碑には「皀角の実はそのままの落葉哉」と刻まれている。現在ある木は1960 (昭和35) 年に千代田区役所によって植えられたという。
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坂上から景観は空の広がりを感じさせ、開放感に満ちている |
この坂を歩いていると目を引くショーウインドーがある。のぞくと浮世絵と橋のような模型が飾られている。説明によればここは1901 (明治34) 年まで神田川を渡る懸樋 (かけひ) がかけられていたとある。道の反対側に「神田上水懸樋跡」と説明板が立てられている。江戸市中に上水として飲み水を提供した起点の地。歴史的に重要な地であることを告げている。江戸時代にはこの辺りの堀は景勝の地として中国の名勝赤壁にならい、小赤壁とうたわれた。歌川広重をはじめ、数々の浮世絵にも描かれた。それらの絵には紛れもなく懸樋が描かれている。
「この地を愛した父の思いを(ウインドーに飾った)模型で届けられれば」と、五味達雄さん、淑子さん |
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懸樋、模型で再現
この懸樋の模型を作り、再現にあたったのは五味信さん (故人) だ。「父は退職してから、模型での再現に情熱を注いでいました」と息子の五味達雄さん(62)は語る。そのいきさつは信さん自らの著書「お茶の水物語」「お茶の水讃歩」に詳しい。失われていくこの地の記憶をウインドーから発信している。
達雄さんが子どものころは、坂の堀側は土手で、格好の遊び場だったという。友達と線路際まで入って遊んでいて、おまわりさんに「危ないから出ろ」と度々追いかけられたそうだ。「雪の日には裏の竹やぶから竹を切ってきて、親父がスキーを作ってくれました。結構遠方からもスキーをかついで滑りに来ていましたよ」と懐かしそうに話す。
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「腰痛や脚の疲れなど、ナースの悩みは中高年の方と共通するものが多いのです」と田村さん |
啄木らゆかりの地
時代は明治へとさかのぼるが、石川啄木はこのあたりに仮住まいした時の印象を「眠れる都」で次のように記している。
《京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望甍の谷ありて眼界を埋めたり…(後略)》
今では視界に入るのは埋め尽くすビル群ではあるが、夜ともなると人通りも少なく、静かになるという。坂を上り切って御茶ノ水駅との中間にある「na−su.com(ナースコム)」は病院の多いこの地ならではの店で、ナース専用の品を扱っている。客層のほとんどが若い女性であることから、「暗くなってからの帰り道には御茶ノ水駅を勧めます」と同店マネジャーの田村仁美さん(40)。「水道橋方面への道は人通りが少なく、夜はちょっと怖いくらいですよ」と話す。
道なりにマロニエ通りに足を進めると1913 (大正2) 年創立の語学学校アテネ・フランセが迎える。日本におけるフランス語学習の黎明(れいめい)期には、谷崎潤一郎や中原中也、竹久夢二ら輩出した著名人は多い。さらに先には与謝野鉄幹・晶子が創設にかかわった文化学院も待つ。“明治のカルチェラタン”駿河台。皀角坂は西からの入り口になっている。
(坂の会 井手のり子)
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文献や浮世絵をもとに研究し、50分の1の縮尺で精密に作られている懸樋模型 |
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