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学生ら若者の姿が目立つ錦華坂 |
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夏目漱石の母校・錦華 (きんか) 小 (現・お茶の水小) から名をとった錦華坂。「漱石ゆかり」の印象を持つ人もいるが、1924(大正13)年の計画で生まれた“新坂”だ。23年9月の関東大震災。直後の大火。見上げる崖(がけ)が逃げ道をふさぎ、数知れぬ悲鳴が炎にのまれた。復興とともにできた坂は崖上の駿河台へ延び、学生らの笑い声が響く。大震災を語るものは、そこにない。
〈本学西方の崖下には錦華小学校の大建築あり (中略) 火は瞬く間に同校を焼尽し火先は直ちに崖上なる本校新館の一角に移り火勢縦横に奔馳して…〉
「大震災に就て」と題した明治大大学報第84号(23年)は「凶火」の猛威をまざまざと伝える。「関東大震災と学園復興」を大学紀要「紫紺の歴程」に書いた鈴木秀幸さん(63) = 同大大学史資料センター、文学部講師 = は「明大だけでなく辺りも3日間、燃え続けたようです」と語る。
江戸時代末期と明治時代の地図を広げ「ほら、錦華坂はないでしょう」と話すのは、千代田区文化財保護調査員を務める木内武郷さん(71) = カバン店「レオ マカラズヤ」社長。
同店は神田神保町に店を構え100年を越す老舗。地元を中心に古くからの写真を保管する木内さんは、街並みの移り変わりも記録し続ける。
震災直後の神保町は辺り一面焼け野原。トレードマークのひげに手をやり陽気に笑うが、「震災の惨状を話せる住民は、もういないよ」と手元の資料に目を落とした。
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木内武郷さん |
錦華坂に近い男坂、女坂も大震災後に整備された坂だ。崖をほぼ真っすぐ上り下りする男坂と女坂は急な石段。これに対し崖を斜めに“わたる”錦華坂は、急な傾斜こそないが、300メートル近い長さがある。
今年生誕140年を数えた漱石が学んだ錦華小は93年、学校統合により「お茶の水小」に名を変えた。坂名の由来とされる校名が消え、「残念と言う方もおられます」と副校長の関哲也さん(49)。坂の半ばから下は錦華公園の木々が坂に濃い影を落とし、昼も薄暗い。「万が一を考え、通学路としての使用は避けています」。児童が遠回りして登下校する通り沿いには「吾輩は猫である」と刻まれた漱石の石碑がある。
坂は明治大のキャンパスなどに接していることから、学生の行き来が多い。川端康成、三島由紀夫、池波正太郎らが執筆の場とし、今も文人の定宿として知られる「山の上ホテル」(TEL03・3293・2311)も坂に面して建つ。コーヒーパーラー「ヒルトップ」など、ホテル内11のレストラン、バーでくつろぐ定年世代も。54年開業のホテルの中は、落ち着いた空間が広がる。
千代田区が作った錦華坂の標柱には「大正一三年八月政府による区画整理委員会の議決により新しく作られた道路」とあるが、「関東大震災」の文字はない。震災と錦華坂の関係を明記した資料は、大戦の混乱や行政区の再編により、所在が分からなくなったという。錦華坂が“震災の産物”というのは確かだが、都公文書館が保管する震災復興資料にも、錦華坂に関する記述は見当たらない。
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関東大震災後の1923年末、神保町側から撮った写真。仮住居が建っている。中央奥に延びる道は錦華通り。錦華坂は錦華通りの右側に整備された
= レオ マカラズヤ提供 |
『山の上ホテル』
TEL :03-3293-2311 |
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