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ラッコ猟の様子(想像図)。「大日本物産図会 千島国海獺採之図」明治10年(国立歴史民俗博物館蔵) |
ラッコといえば、海に浮かびながらおなかの上に石を置いて、手に持った貝をぶつけて食べるかわいらしい姿が親しまれています。
18世紀後半、このラッコたちが生息していた千島列島からアリューシャン列島を経てバンクーバーに至る北太平洋の沿岸は、毛皮に目を付けた欧米の商人たちの注目の場になりました。ラッコの毛皮は、「その毛、純黒、はなはだ柔軟にして、左右これに靡(なず)るに順逆なし。…官家の褥(しとね)となし、その美、これに比する者なし」(「和漢三才図会」)という魅力的なものでした。ここでいわれるラッコ毛皮をベッドに敷く「官家」とは、中国の貴人の家。当時、最大の毛皮市場だった中国には、世界各地からさまざまな毛皮が持ち込まれました。アメリカ商人が対中国向けに輸出したラッコ毛皮数は、1805年には1万7445枚と最高に達しました。輸出は、ラッコの捕獲数が減少する1820年代ごろまで続きます。
江戸時代後期の幕府も、このような動きに注目していました。1763(宝暦13)年、長崎から中国に向けて12枚の毛皮が輸出された記録が最古のものですが、その後、輸出数は増加、1812(文化9)年には1395枚に達し、日本に銀をもたらしました。では、この長崎輸出のラッコ毛皮はどこから来たのでしょうか。
ラッコは、実はアイヌ語です。これらのラッコ毛皮は、蝦夷地(現北海道)の東部、根室、厚岸から国後、択捉島に至る地域のアイヌの人びとが、自ら猟をしたり、北方との交易によって入手したりしたものでした。長崎輸出が活発化した18世紀末、道東では、当時蝦夷地を治めていた松前藩やその配下の和人商人たちの厳しい収奪を受け、アイヌの人びとがクナシリ・メナシの戦い(1789年)に立ち上がります。その一方で、北太平洋をめぐる世界史の動向を敏感に感じ取り、ラッコ毛皮の猟に出るアイヌ首長たちも現れました。道東のアイヌ民族も歴史の岐路に立たされていたのです。かわいらしいラッコとそれをめぐる北太平洋の諸国・地域には知られざる歴史があったのです。
《国立歴史民俗博物館教授 横山百合子》 |
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