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石垣島に立つ、地元の英雄・オヤケアカハチ像 |
九州島と台湾の間に連なる南西諸島。そこは「琉球弧」とも呼ばれ、1200キロほどの間に約200もの島々が点在しています。現在は、奄美大島や喜界島を含む奄美諸島より北側が鹿児島県、沖縄本島から宮古・八重山・与那国島にいたる南側が沖縄県に属しています。天候に恵まれれば、日本最西端の与那国島からは台湾の高峰がはっきりと望め、沖縄本島よりもむしろ親近感を抱く距離です。
現在の行政単位は、江戸時代の琉球王国や薩摩藩の領域に根拠があることはよく知られています。それは1609(慶長14)年に薩摩藩が琉球王国に兵を送り、一方的に侵略した結果であり、それ以前、奄美諸島は琉球王国の領域でした。歴史に「もしも」はありませんが、この事件がなければ奄美大島は現在沖縄県だったかもしれません。
平和な貿易国家・琉球王国の悲劇。薩摩藩の侵略以降の琉球・沖縄の歴史は、こういった受動的なイメージを作り上げてきました。しかし、中世と呼ばれるそれ以前の時代、世界史の大航海時代に先駆けて、東アジア海域を舞台に主役を演じたのは琉球王国でした。中国(明)や日本、東南アジアの国々と盛んに貿易を行い、那覇は当時有数の国際貿易港として栄えました。
さらに、尚真王(しょうしんおう)の時代(在位1477—1526年)には強勢を誇り、言葉も文化も異なる周辺地域の島々を侵略し支配下においていったのです。石垣島を中心とした八重山地域にはオヤケアカハチが、さらに先の与那国島にはウニトラ(鬼虎)という有力者がいましたが、琉球王国の兵によって滅ぼされました。現在の沖縄県域に、与那国島にいたる数々の島が含まれるのは、この時の外征による支配が根拠となっているわけです。
《国立歴史民俗博物館准教授 村木二郎》 |
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