定年時代
定年時代はアクティブなシニア世代の情報紙
ASA(朝日新聞販売所)からお届けしています
会社概要 媒体資料 送稿マニュアル
広告のお申し込み イベント お問い合わせ
個人情報保護方針 サイトマップ  
HP更新日 → 新聞発行日の翌々日(水曜日)
新聞発行日 → 第1月曜日:東京/埼玉/千葉/横浜・川崎/茨城
  第3月曜日:東京
トップ 東京版 埼玉版 千葉版 横浜・川崎版 茨城 高齢者施設 プレゼント
旅行 | おすすめ特選ツアー | 趣味 | 相談 |  | 仕事 | 学ぶ | これは便利これは楽々 | リンク | インフォメーション
定年時代
 
  ものしりミニ講座 平成20年9月下旬号  
陸に上がったカッパ  国立歴史民俗博物館/宇田川武久
 
 江戸時代の1831(天保2)年、豊後森の城主久留島信濃守は、上方から取り寄せたばかりの石碑を屋代島(周防大島)の普門寺境内に建てた。この碑には、さかのぼること200年前の1633(寛文3)年、参勤交代の途中、屋代島沖で海難事故に遭い命を落とした久留島主膳通方とその家臣の法名が刻まれていた。久留島氏は参勤交代などで瀬戸内海を航行する時は普門寺に詣でて犠牲者の菩提(ぼだい)をとむらうことを習わしとした。信濃守の仏参と石碑の建立はそれにならったのである。

  この久留島氏は、もと来島氏を称し、瀬戸内海に割拠した「村上水軍」の一族であった。特に、戦国時代に活躍した来島通康は、伊予河野氏の水軍を統括する、いわば海軍司令官の地位にあった人物で、屋代島にも勢力を及ぼし、毛利元就をはじめ西国の戦国大名に期待された実力者だった。

  しかしその後、関が原の戦で通康の孫、久留島康親が徳川氏に敗れると、山深い豊後に封ぜられ、海と縁が切れてしまう。

  江戸時代、海と関係をもたなくなった久留島氏は水軍の性格を失い“陸に上がったカッパ”になってしまったのである。後年、その子孫である久留島主膳通方がゆかり深い海域で海難事故を起こしたことはそれを語ってあまりある。

ポイントページの先頭へ
学ぶ
ものしりミニ講座
最新号
令和6年過去の記事一覧
令和5年過去の記事一覧
令和4年過去の記事一覧
令和3年過去の記事一覧
平成31年過去の記事一覧
平成30年過去の記事一覧
平成29年過去の記事一覧
平成28年過去の記事一覧
平成27年過去の記事一覧
平成26年過去の記事一覧
平成25年過去の記事一覧
平成23年過去の記事一覧
平成22年過去の記事一覧
平成21年過去の記事一覧
平成20年過去の記事一覧
   
定年時代読者のためのおすすめ特選ツアー
 
 
定年時代
トップ | 会社概要 | 媒体資料 | 送稿マニュアル | 広告のお申し込み | イベント | お問い合わせ | 個人情報保護方針 | サイトマップ
当ホームページに掲載されている全ての文章、写真、イラスト等の無断複製・転載を禁じます。
Copyright Shimbun Hensyu Center Company. ALLrights reserved.